教会だより
「貧しい人々は幸いである」 ルカによる福音書6章20-23節(10/19説教)
主イエスは「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」(20節)と言われました。「貧しい」とは、単に心が貧しい(マタイ5章3節)だけでなく、存在そのものが貧しい、全てが貧しい(罪深い)ということです。
なぜ貧しい人が「幸い」なのでしょうか。それは、主イエスの「貧しさ」を知ることができるからです。主イエスの貧しさを自分のための貧しさとして知ることができるからです。主イエスこそ最も貧しくなられた御方です。主イエスが全ての人間の罪の代わりに十字架につけられたということは、主イエスが全ての人間の中で最も貧しくなられたということを意味するのです。
主イエスは十字架につけられる時、「お前が神の子メシアであるなら、十字架から降りてみろ。そうしたら信じてやろう」と言って、人々から嘲けられました。主イエスは何もお答えになりませんでした。「わたしこそ真のメシアであなたがたに代わって十字架につくのである」などとも言われませんでした。自分を十字架につける人たちを心の中で蔑み、呪うこともされませんでした。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)と心から執り成し祈りつつ、ご自身はまるで本当に人々が嘲る通り「偽メシア」「神を冒瀆する者」「大罪人」であるかのように十字架の死を遂げられました。
この主イエスの十字架の死の真実を天の父なる神がご承認くださった故に、主イエスの死からのよみがえりが実現されたのです。
「貧しい人々」は、この主イエスの十字架の死の貧しさを自分の罪の赦しと救いのための出来事として受け入れることができるからです。その最も近いところに身を置いているからです。それ故に、貧しい人々は幸いなのです。そして貧しい人々が実際に主イエスの十字架と復活を自分のための出来事として受け入れることができた時、その人たちは「神の国」(主イエスがお与えくださる救い)の中に豊かに生きることができるのです。
牧師 柏木英雄
