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教会だより

「主の復活の証人になる」 使徒言行録1章12-26節

  本日は、使徒言行録1章12節以下から学びつつ礼拝を献げたいと存じます。

  主イエスは、復活後40日間の弟子たちとの交わりの後、昇天され、父なる神の御許に帰っていかれました。その時、主イエスが弟子たちに約束されたことは、聖霊を与える、ということでした。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、~地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(8節)という主イエスの約束でした。弟子たちはこの復活の主イエスの約束を信じて、聖霊を祈るものとなったのです。

  こんなことを考えさせられます。弟子たちは、復活後40日間の主イエスとの交わりによって心から主イエスの復活を信じる者になりました。しかし、それで直ちに「復活の主の証人」になれるわけではありませんでした。聖霊を与えられなければならなかったのです。聖霊を与えられ、その中に臨在される主イエスのご臨在の恵みに与り、力(死人をよみがえらせる復活の力)を与えられ、自らが主によって新しく生かされることがなければ、真に復活の主の証人になることはできなかったのです。主イエスの復活を信じる者となったのなら、主イエスの復活について何事かを語ることはできたかもしれませんが、「復活の主の証人」になることはできなかったのです。復活の主の証人となるためには、聖霊を祈り求め、聖霊の恵みに与り、復活の主の命に生かされることが必要だったのです。

  このことは、私たちの信仰についても言えるのではないでしょうか。主イエスを「信じる」というだけでは足りないのです。それはまだ思想であり、信念(観念)に留まるのです。主イエスを信じて、主の霊に生かされなければならないのです。そうであれば、信仰とは常に聖霊を祈り求めることです。聖霊を求め、主のご臨在の恵みに与ることです。それが信仰というものです。主の祈りも聖霊を求める祈りです(ルカ11章13節)。「たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、もし愛(主の臨在)がなければ、無に等しい」(Ⅰコリント13章2節)と言われている通りです。主イエスを信じる信仰とは、聖霊を祈り求め、主キリストの霊的臨在に与り、主キリストの復活の命に生かされることである、ということができます。

  さて、弟子たちは主イエスの聖霊の約束を信じて、共に祈るものとなりました。13節に「泊まっていた家の上の部屋に上がった」とあります。この2階の部屋で、2章1節以下に記されている聖霊降臨の出来事が起こったのですが、この部屋はまた弟子たちが主イエスと最後の晩餐を行った部屋とも言われています。そのゆかりのある部屋で、11名の弟子たちを中心に120名の人々(15節)が集まり、心を一つにして熱心に祈っていたのです。そしてこの120名の人々の中に主イエスの母マリアとイエスの兄弟たちが加わっていたことが14節から分かります。このことを知ること、特に主イエスの母マリアが加わっていることを知ることは私たちにとって深い慰めではないでしょうか。

  マリアは、主イエスの生前には主イエスを信じることができませんでした。マリアはクリスマスの出来事の時、聖霊によって神の子を身ごもると言われたことを決して忘れることはなかったと思います。ただ、マリアが信じた神の御子メシアは、人々の上に立って神の民イスラエルを名誉ある地位に導く栄光のメシア(指導者)でした。ところが、現実の主イエスはマリアの考え期待したメシアとは全く違っていました。人の上に立つどころか、人々から(特にイスラエルの指導者たちから)批判され、憎まれ、神を侮る者、人々を惑わす偽指導者としてついに十字架につけられてしまったのです。マリアの悲しみ、落胆はいかばかりであったかと思うのです。

  しかし、主イエスの十字架の死はまさにマリアの死でした。マリアが期待し思い描いていたメシア像の死でした。そういうものがすべて打ち砕かれ、全く無に帰せられた時、マリアは初めて本当の主イエスに出会うことができたのです。その時初めてマリアの心の目が開かれ、本当の主イエスを見ることができたのです。マリアの目に示されたお方は、すべての人間の罪を(従ってマリアの罪も!)十字架の死によって贖うことによって人々を神の救いへと導く苦難のメシアであって、このお方こそマリアの胎の中に聖霊によって宿った神の御子イエスだったのです。

  マリアはこのことを弟子たちと同じように、主イエスの復活の出来事を通して教えられたのです。主イエスの復活を通して、主イエスの十字架がそういう意味を持つ出来事であり、決してメシアの業の挫折や失敗ではない、それこそ成就であることを教えられたのです。主イエスの十字架の死(マリアにとっては我が子の死!)によって深い悲しみと苦しみの中にあったマリアの心に光が差し込んだのです。主イエスが神の全能の御力の中に生きておられると共に、主イエスがまことのメシアとして救いの業を成就されたことを知ることができたからです。クリスマスの出来事においてマリアに示されたことが本当のことであったことを、今こそマリアは主イエスの復活の恵みの光の中で知ることができたのです。こうしてマリアも(そして主イエスの兄弟たちも)主イエスを信じる者たちの仲間に加わることができたのです。神は決してマリアをお見捨てにならなかったのです。「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」と語ったあのマリアの謙遜を神は決してお忘れにならなかったのです。そのことを知ることが私たちの深い慰めではないでしょうか。

  さて、弟子たちは主イエスの聖霊の約束を信じて祈り続けました。どのくらい祈ったのでしょうか。こういう計算ができます。主イエスは復活して40日間弟子たちと共に過ごされました。その40日後に昇天され、そこから弟子たちは祈り始めたのです。そして実際に聖霊が降ったのが「五旬祭の日」(2章1節)です。五旬祭(ペンテコステ)とは、文字通り「50日目の祭り」という意味です。過越祭の翌日(日曜日)から数えて50日目の祭りのことです。そして主イエスは過越祭の時に十字架につけられ、三日後(日曜日)によみがえられたのですから、五旬祭とは、主イエスの復活から数えて50日目の祭りと言うことができます。そうであれば、50から40を引いた10日間が弟子たちが祈った期間ということになります。

  11名の弟子たちを中心に120名の人々が10日間祈ったのです。しかも10日祈れば聖霊が与えられるとわかっていたわけではありません。いつ聖霊が与えられるか弟子たちは全く知らなかったのです。そういう状況の中で、ただ主イエスの御言葉を信じて祈り続けることは大変な心の戦いだったのではないでしょうか。祈っても祈ってもなかなか聖霊が与えられないという思いがしたのではないでしょうか。そういう中にあって、主イエスの約束は本当だろうかと疑う気持ちが起こっても不思議ではなかったのではないでしょうか。しかし、14節に「心を合わせて熱心に祈っていた」とあり、15節には「120人ほどが一つになっていた」とありますから、一人の脱落者も出ないで祈り続けたことになります。人々は11人の弟子たちを中心に心から復活の主イエスの約束を信じたのです。そうであれば、あの復活の主イエスと過ごした「40日間」がいかに大切であったかが分かります。復活の主イエスとの40日間の交わりの中で弟子たちは心の底から主イエスを信じる者とされたのです。主イエスが言われることは本当であることを確信したのです。自分たちは不真実であっても、主イエスは常に真実であることを心に刻んだのです。そして復活の主イエスはそのために40日間を弟子たちと共に過ごされたのです。

  それでも人々の中には疑いの心を抱く人も出てきたかもしれません。しかしその時こそ、皆で励まし合い助け合って、祈り続けたのではないでしょうか。かつて弟子たちは主イエスの十字架の死を疑いました。それが誤りであることを主イエスの復活によって思い知らされました。そうであれば、弟子たちは自分たちを信じなくなったのです。自分たちの疑いも信じなかったのです。自分たちの疑いよりも、主イエスの約束の正しさ、真実を信じたのです。そうであれば、たとえ疑いが起こっても、それによって動かされることなく、主イエスの約束を信じて(今こそ主の約束を信じて!)、互いに励まし合いながら祈り続けた10日間であったのではないでしょうか。復活の主イエスとの40日間の交わりがあったからこそ、人々は心を一つにして祈り続けることができたのです。

  16節以下に、主イエスを敵に売り渡した12弟子の一人ユダのことが記されています。主イエスが12人の弟子を「使徒」としてお選びになったのは、旧約聖書における神の民イスラエルの12部族を念頭に置いてのことでした。神の民イスラエルの12部族を踏まえて、今や十字架と復活を通してメシアの業を成し遂げた主イエスを信じて、聖霊によって生きる新しい神の民イスラエルを創設する。主イエスはそのことをお考えになって、12人の弟子を使徒としてお選びになったのです。それにもかかわらず、ユダが脱落して「11人」になってしまった。そうであるなら、今、聖霊をいただいて新しい神の民として出発するに際して、脱落したユダの代わりを補充し、改めて「12人」の使徒の体制を作る必要がある。その上で、新しい神の民(主の教会)として出発すべきである。そう弟子たちは祈りの中で示されたのです。そこで、くじを引いてユダの代わりに1名を補充したことが、21節以下に記されています。

  なぜ、ユダは主イエスの弟子(使徒)として選ばれながら、主イエスを敵に売るということをしてしまったのでしょうか。その最大の原因は主イエスの受難にあったのではないでしょうか。他の弟子たちも皆主イエスの受難に躓いたのですが、その中でも、特にユダは深く主イエスの受難に躓いたのではないでしょうか。ユダも初めは心から主イエスを信じて主の弟子になったはずです。しかし、主イエスがご自身の受難について語られた時、弟子たちは深い心の動揺を覚えたのです。ペトロは初めて受難予告を耳にした時、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言って主イエスをいさめ、主イエスから「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(マタイ16章23節)と言って、厳しく叱られたのです。その主イエスの受難予告に最も深く躓いたのがユダだったのではないでしょうか。ユダはどうしても主イエスの受難を受け入れることができなかったのです。他の弟子たちもそれは受け入れ難いことと思ったのですが、しかし、主が言われることだから(ルカ5章5節)と思い直しつつ、最後まで主イエスに従おうとしたのです。ただ最後の最後で躓いてしまったのです。心の底に主イエスの受難は嫌だ、ないほうがいいという思いがあったからです。それ故に、主イエスが捕らえられた時、弟子たちは皆主イエスを見捨てて逃げてしまったし、ペトロは3度知らないと否定してしまったのです。それでも、弟子たちが最後まで主イエスに従おうとしたことは事実なのです。

  それに対して、ユダはどうしても主イエスの受難は受け入れられないという思いを強く心に持ち続けたのではないでしょうか。その点で、ユダは主イエスの御言葉より自分の思いを立てたのではないでしょうか。つまり、その点でユダは自分の思いを捨てられなかったのです。主イエスの受難は絶対に認められない、嫌だという思いを捨てられなかったのです。しかし、主の御言葉を受け入れず、自分の思いを通すということは、不従順であり、もはや主の弟子ではないということです。主の弟子であることをやめることです。ユダの心は主イエスの受難予告をきっかけに主イエスから離れていったのではないでしょうか。体は主の弟子として留まっていたのですが(むしろ実際に主の弟子であることをやめてしまった方がよかったのです。後で主に立ち帰る機会が与えられたでしょうから)、心は遠く主イエスから離れてしまったのです。そして心が主イエスから離れれば、自ずから自分中心の生き方となり、格好のサタンの餌食になってしまうのです。ここからユダの離反が始まったのではないでしょうか。ユダは主イエスの受難が避けられないことを知った時(主イエス自身が固くそのことを決意していたし、主イエスを取り巻く状況もそのようになっていた!)、それならイエスを敵に売って金儲けの機会にしてもいいではないかというサタンのささやきがユダの心を捕らえたのではないでしょうか。「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った」(ヨハネ13章27節)とはそういうことを意味していたのではないでしょうか。

  このユダの「不正な」(使徒言行録1章18節)決意によって事態は急進展したのです。イスラエルの指導者たちは過越祭を避けたかったのですが、思いがけないユダの申し出から、過越祭のただ中で主イエスを捕らえて十字架につけることになってしまったのです。しかし、それによって主イエスが「過越の小羊」として過越祭のただ中で十字架にかかることが実現したのです。その意味ではユダは全く否定的な意味で(しかしそれなりに重要な意味を持つ仕方で)主イエスの十字架の出来事の実現に貢献したのです。いや、神がユダの裏切りをお用いになったのです。主イエスの誕生の時に、ローマ皇帝の人口調査によって主イエスがガリラヤのナザレではなく、ダビデの町ベツレヘムでお生まれになり、旧約聖書の預言が実現されたように、神はユダの罪(悪)を用いて、御子イエスの受難(罪の贖い)の出来事を成就されたのです。

  主イエスはユダの裏切りを知りつつユダの接吻を受け自ら敵に捕らえられたのですから、主イエスはユダの罪をも赦しておられるのです。主イエスはユダのためにも十字架にかかってくださったのです。ユダの罪も主イエスの十字架において担われているのです。もしユダがそのことを知ることができたならと思うのです。しかしユダは、罪を犯した後、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」(マタイ27章4節)と言って、後悔し、もらった銀貨30枚を祭司長たちに返そうとしたが、受け入れてもらえず、銀貨を神殿に投げ込んで自ら首をくくって死んだ、とマタイ福音書は伝えています。(今日の使徒言行録では、不正な金で土地が取得された点は共通ですが、そのほかは記述の仕方に違いがあります。)もしユダが主イエスの復活の時まで命を長らえさせていたらと思うのですが、そのことを待つにしてはあまりに深く自らの罪に絶望し、自ら命を絶つ以外に道が残されていなかったのです。主イエスの弟子でありながら、主イエスを受け入れることができなかったユダの悲劇がここに示されていると思います。

  弟子たちは、聖霊を受けて新しい神の民として出発するために、ユダの不正を明らかにし、ユダが果たすことができなかった使徒の使命を誰かが代わって担われなければならないことを、祈りの中で示されたのです。そこで、21節以下「主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです」と言って、主の御心を祈りつつ、くじを引き、マティアをユダに代わる使徒として選んだのです。

  ヨハネから洗礼を受け、苦難のメシアとしての地上の生涯を歩み抜かれ、十字架の死を遂げ、復活の命を現わし、天に帰っていかれた主イエスの公生涯全体が振り返られています。そのことを踏まえて「主の復活の証人」が選ばれたのです。主の復活の証人は、主イエスの尊い地上の生涯をよく知っていなければならなかったのです。主イエスの十字架と復活の出来事が神共にいます(インマヌエルの)主イエスのメシアとしての地上の歩みの結果であることをよく知る者が、ユダの代わりを務めなければならなかったのです。そのことを自戒を込めて振り返った弟子たちだったのではないでしょうか。それと共に、弟子たちは改めて主の弟子として主と共に生きたかけがえのない日々を感謝をもって思い起こしたのではないでしょうか。

  神共にいます(インマヌエルの)主イエスの地上のご生涯全体を覚えつつ「主の復活の証人」として生きることが、信じるすべての者の使命です。私たち自身は肉なるものとして弱く乏しいものですが、聖霊によって復活の主の命に与りつつ、日々の生活のただ中でそして生涯を通して「主の復活の証人」として生きるものでありたいと願います。

牧師 柏木英雄