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教会だより

「一同は聖霊に満たされ」使徒言行録2章1-13節

  本日は、ペンテコステ、聖霊降臨日です。使徒言行録2章1節以下から御言葉に聞き、ペンテコステの出来事(弟子たちによる福音宣教の開始=主の教会の誕生)を覚えながら礼拝を献げたいと存じます。

  12使徒(ユダの代わりにマティアを加えて)を中心に120名の人々が復活の主イエスの約束を信じて、心を一つにして聖霊が降ることを祈り続けました。弟子たちはいつ聖霊が与えられるか全く知りませんでした。それは神ご自身がお決めになることでした。そのような不安定な状況の中に置かれながらも、弟子たちはただ主イエスの約束を信じてひたすら祈り続けたのです。弟子たちの信仰の強さを思わされます。いや、復活の主イエスとのあの40日間の交わりがいかに重要であったかを思わされます。それによって弟子たちは強められ、心から主イエスの約束を信じて祈り続けたのです。

  約束の聖霊が、五旬祭(ペンテコステ)の日に降りました。主イエスの復活(過越祭の翌日)から数えて50日目、主イエスが昇天され、弟子たちが祈り始めてから10日目でした。それにしても、なぜ、神はすぐに聖霊をお与えにならず、これだけの「間隔」(日数)を設けられたのでしょうか。そこには神のご計画があったのですが、いずれにしても神は、このことによって聖霊(主イエスの霊的臨在)を求めて「祈る」ことの大切さを教えておられるのではないでしょうか。主イエスを信じることは、聖霊(主イエスの霊的臨在)を求めて祈ることであり、聖霊の助けがなければ信仰は無力であることを教えるために、神はあえてこれだけの間隔を設けられたのではないでしょうか。主イエスは「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ7章7節)と言われました。また、「主の祈り」の最後のところで「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11章13節)と言っておられます。いずれも聖霊を求めて祈ることの大切さが強調されています。主イエスのご臨在の恵み(復活の命)に与るためには、聖霊を求めて祈らなければならないのです。そして祈りが、即、聞かれることもあれば、長く祈らなければならないこともあります。聖霊は神の主権の中にあり、私たちの自由の中にありません。それ故に、私たちは聖霊を求めて祈ることによって、心を砕かせられ、深く謙遜を学ばせられます。その中で、神は私たち一人一人に最もふさわしい仕方で(自由に、しかし、憐み深い仕方で)聖霊を与えてくださるのです。

  五旬祭(ペンテコステ)は、元来は小麦の収穫感謝祭でしたが、後にモーセがシナイ山で律法を神から与えられた日として祝われるようになった祭りです。ユダヤ人の3大祭り(春の過越祭、初夏の五旬祭、秋の仮庵祭)の一つです。従って、多くのユダヤ人がこの祭りのために国の内外からエルサレムに集まって来ました。神がこの日を「聖霊降臨日」としてお選びになった理由の一つがここにあります。この日に聖霊が降ることによって、いわば全世界に向かって聖霊降臨の出来事が、そして主イエスの福音が発信されることになるからです。主イエスの十字架の出来事は過越祭のただ中で起こりました。そして主イエスの復活後50日目の祭り(ペンテコステ)の日に聖霊が降ることによって、主イエスの十字架と復活に基づく神の救いの御業が全世界に向かって宣べ伝えられることになったのです。弱かった弟子たちが聖霊によって強められ、全世界に向かって主の福音を宣べ伝え始めたのです。それが神のご計画でした。そのために神は「五旬祭」(ペンテコステ)を「聖霊降臨日」としてお選びになったのです。そしてこの日が主の教会の誕生の日となり、聖霊によって生きる私たちの信仰生活の始まりの日となったのです。

  2節に「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」と記されています。「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえた」ということは、聖霊が降るという出来事が「激しい」(根源的な)神の救いの出来事であることを意味しているのではないでしょうか。一人の人間が神によって(主の救いの働きの中で)根本から新しく造り変えられる出来事、人間の「再創造」が行われる出来事を意味していると考えられます。神は、天地万物をお造りになった第1の創造(創世記1章以下)に対して、罪に堕した人間を聖霊によって主イエスの復活の命(罪と死に勝利する永遠の神の命)に生かす第2の創造(人間の再創造)を行っておられるのです。聖霊が降るとは、そういう神の救いの出来事なのです。「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえた」という表現の中で、そのような人間の「再創造」が語られているのです。使徒パウロはダマスコの途上で天からの強い光によって地に伏させられ、そこから新しく主を信じて生きる者に変えられました。それと同じことがここで起こっていると言うことができます。

  聖霊が降る(働く)ということは、必ずしも「激しい風が吹く」というような劇的な姿(現象)をとるとは限りません。静かにささやかな仕方で(列王記上19章12節)聖霊が働くこともあります。しかし、聖霊が働く時は、神の救い(人間の再創造)が行われる時ですから、その出来事はいつでも質的には「激しい」(根源的な)出来事であり、私たちの古い罪の在り方が根本から新しくされる出来事なのです。聖霊の働きの中で、(天に昇られた)主イエスが臨在され、主イエスの救いのご支配(神の国の働き)が行われるからです。

  かつて弟子たちは主イエスによって「わたしに従ってきなさい」と声をかけられ、すべてを捨てて主の弟子になりました。その時、弟子たちはこの方こそ神から遣わされたお方であり、この方に従うことが神の御心であると心から信じたのです。そしてそれは弟子たち自身の決断のように見えますが、その決断を導かれたのは主イエスご自身なのです。主イエスが(死人をよみがえらせる)全能の御手をもって弟子たちの魂を捕らえることによって、そのような決断が弟子たちに与えられたのです。そうであれば、主イエスの神の国の働きはすでにその時から始まっていたのです。弟子たちは主と共に生きる生活の中で、この罪の世にあってすでに天上にあるごとく、深い心の平安と救いの喜びの中に生きることができたのです。それと同じことが、今、聖霊の働きの中で、起こっているのです。聖霊の働きの中で、同じように主イエスが生きて働いていてくださるからです。しかも弟子たちは、今や主イエスの十字架と復活の出来事を知っているのです。すべての罪が主イエスの十字架によって担われ、どのような人間も主イエスの復活の命の中に生きることができることを知っているのです。その十字架と復活を遂げられた主イエスが、今、聖霊の恵みの中で、救い主として働いていてくださるのです。そのことを知る弟子たちの喜びはいかばかりであったでしょうか。心の底からの深い喜びが与えられたのではないでしょうか。使徒パウロが復活の主イエスに出会うことによって180度変えられたように、弟子たちもまた聖霊の恵みに与ることによって、全く新しく生かされる者となったのです。聖霊の恵みは、その意味で激しく根源的な神の救いの出来事なのです。

  3節に「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。「炎のような舌」とは、燃えるような信仰の心(情熱)ということでしょう。エマオの途上で復活の主に出会った弟子たちは、主イエスによって聖書が解き明かされた時、「心が燃える」経験をしました。それと同じ経験を弟子たちは聖霊の恵みに与ることによって与えられたのです。聖霊の恵みの中に、復活の主イエスが共におられるからです。復活の主の「復活の力」(フィリピ3章10節)によって弟子たちの心が燃やされるからです。使徒パウロは、この世におけるキリスト者の信仰生活についてローマの信徒への手紙12章9節以下でこう言っています。「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」と言っています。また、宗教改革者ルターは「わたしは今日でも子供のように主の祈りの乳房から飲み、老人のように主の祈りによって飲み、これによって食し、しかも飽きることがない」と言っています。このような信仰生活は、聖霊の恵みの中で初めて可能なのではないでしょうか。聖霊の恵みの中で、主が共にいてくださる恵みによって私たちの魂が新しくされる時、私たちもまたこのような信仰生活に生きることができるのです。

  主イエスが約束してくださった聖霊が降った時、弟子たちの心に最初に与えられた思いは何だったでしょうか。それは、主イエスの約束は本当だった、という思いではないでしょうか。主イエスの約束が真実であることを知る深い喜びと感謝の気持ちだったのではないでしょうか。弟子たちは主イエスの約束を信じて10日間祈り続けました。10日祈れば聖霊が与えられると分かっていたわけではありませんでしたから、弟子たちはもっと祈り続けるつもりだったでしょう。その間には主イエスの約束は本当だろうかと疑う気持ちも起こったかもしれませんが、互いに励まし合って祈り続けたのです。そのように祈り続ける間に、聖霊が与えられたのです。その時の弟子たちの喜びはどれほどのものであったかと思います。深い喜びが弟子たちの心に満ちあふれたのではないでしょうか。主イエスを疑ったことを恥じる気持ちも与えられたかもしれません。その時、何よりも弟子たちの心を喜ばせたのは、主イエスの約束が真実であり偽りではなかったということではないでしょうか。弟子たちは約束通り聖霊が与えられることによって、改めて主イエスの真実を深く覚えることができたのです。主イエスが語られ行われたことがすべて真実であること、何よりも主イエスの十字架と復活が真実の出来事であることを、弟子たちは改めて深い感謝をもって覚えることができたのです。それと共に、弟子たちは燃えるような心を与えられて、主イエスのご生涯のすべてを、主イエスの十字架と復活の真実をあらゆる人に宣べ伝えたい、宣べ伝えなければならないと思ったのではないでしょうか。

  4節に「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」とあります。「ほかの国々」とは、9節以下に具体的にその名があげられている地中海沿岸を中心とした13の国々です。ディアスポラ(離散の)ユダヤ人が住んでいた国々です。それらの国々から多くのユダヤ人が五旬祭のためにエルサレムに来ていたのです。その人々が「自分の故郷の言葉」で(6節)、弟子たちが語る「福音」を聞いたのです。

  ここに一つの謎があります。この時、聖霊を受けた弟子たちが実際にこれらの国々の言葉を語ったのか(弟子たちにそういう能力が与えられたのか)、それとも弟子たちは自分たちの言葉(アラム語)で語ったのに対して、それを聞いた人々が「自分の故郷の言葉」で語られているように聞いたのか、ということです。どちらのことが起こっていたのか、実際のことはよく分かりません。明らかなことは、そこに居合わせたすべての人が主イエスの福音をまるで自分の国の言葉で語られているように(外国語で語られているようにではなく!)よくわかる言葉で聞いた、ということです。弟子たちが「聖霊に満たされ、聖霊が語らせるままに」主イエスの福音を語った時、そのような「奇跡」が起こったのです。主イエスの福音が聞く人々の心にしっかり届くように語られ、聞かれるという奇跡が起こったのです。無力な弟子たちが聖霊を受けることによって新しく生かされ、燃えるような心で主の福音を語ることによって、その福音を聞く人々の心にも聖霊が働いて、福音が真理として響くような仕方で聞かれたのです。福音を語る側にも聞く側にも、聖霊が働き、復活の主イエスの救いの働きが行われているのです。聖霊によって主イエスの福音が語られる時、そのような奇跡が起こるのです。福音宣教の偉大さを思わされます。

  聖霊による福音宣教によって、主イエスの福音がすべての人間の魂を救う唯一の救いの真理であることが示されたのではないでしょうか。主イエスがすべての人間の罪を負って十字架の死を遂げ、すべての人間を救うために罪と死に勝利する復活の命を現わされたという福音の事実が、普遍的な真理として示されたのです。そうであるなら、主イエスの福音こそ、すべての人間の心を一つにする唯一の「共通言語」と言うことができるのではないでしょうか。

  旧約聖書創世記11章に「バベルの塔」の話が記されています。人々が(悪しき意味で)心を一つにして天にまで届く塔を立てようとした話です。神の立場に立とうとする人間の心の「高ぶり」を表す行為として、このことが行われたのです。その時、神は人間の言葉を「散らし」、互いに意思の疎通ができなくなるという仕方で、人間のこの罪を罰せられたのです。それは人間の罪に対する神の裁きでしたが、同時に、「心を一つにして」罪を犯すことによって人類全体が滅びることがないようにとの神の憐みの御心によることでもありました。神の裁きの中にも神の憐みが現わされているのです。

  言葉が散らされ、互いの意思の疎通が図れなくなることによって、計り知れない不幸や困難が生じる人間の現実の中にあって、神は、それを補って余りある大いなる恵みを人類に与えてくださったのではないでしょうか。すべての人間が心を一つにして善を行う、いや、最善(愛)を行うことのできる唯一の「共通の言語」、真の意思疎通の手段を、神は人類にお与えくださったのです。それが、主イエス・キリストの福音です。すべての人間が、聖霊の助けの中で、このお方を心の中に主と受け入れ、このお方の命に生かされる時、私たちはどんな人間であっても、本当の愛、本当の赦しに生きる勇気と力を与えられ、まことの平和に生きるものとされるのです。神はそういう人類救済の道を聖霊降臨日の出来事の中で与えてくださったのです。

  4節に「一同は聖霊に満たされ」とあります。聖霊は一人一人の上に、そこにいた120名の弟子たちすべてに等しく与えられたのです。すべての者が聖霊に満たされ、主イエスの福音を力強く語るものとされたのです。聖霊の恵みはすべての人に等しく与えられるのです。私たちの現実には様々の違い、区別や差別があります。しかし、聖霊の恵みに与ることにおいては一切の違いがないのです。神の御前に心砕かれ、主イエスに服する者は皆、等しく主の霊に生かされることができるのです。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3章28節)と語られている通りです。聖霊の恵みこそ、この真理を表しています。聖霊に満たされつつ生きる信仰の生活を生涯を通して共に求めていきたいと願うものです。

牧師 柏木英雄