教会だより
「記念として語り伝えられる」 マルコによる福音書14章3~9節
3節後半に「一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた」とあります。5節に「この香油を三百デナリオン以上に売って」とあり、三百デナリオンとは労働者の一年分の賃金に相当しますから、この香油がいかに高価なものであったかが分かります。それを、壺を壊して、一気に主イエスの頭に注ぎかけたのですから、確かに女性の行動は常軌を逸したものでありました。
なぜ、女性はこのような行動を取ったのでしょうか。この女性は主イエスの受難の時が近いことを知っていたのではないでしょうか。主イエスを信頼し、主イエスの御言葉を注意深く心に刻むことによって、そのことを理解したのではないでしょうか。もしこの女性がマルタの妹マリアであるなら(ヨハネ12章3節)、主イエスの足もとに跪いて深く主の御言葉を聞くことによって。またこの女性が「罪の女」であるなら(ヨハネ8章1節以下)、姦淫の現場で捕らえられた時に語られた「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」という主イエスの赦しの御言葉が主イエスご自身の十字架の贖いの死に基づくものであることを悟ることの中で、その主イエスの受難の時が迫っていることを敏感に感じ取ることができたのではないでしょうか。
主イエスの受難が近いということは、敬愛してやまない主イエスとの地上の別れが近いことを意味しました。しかし、主イエスの受難はすべての人間の罪の贖いのためであり、主イエスはそのために「贖いの小羊」として神から遣わされた御方である故に、主イエスの受難は避けることのできない定めであることを女性は知っていたのです。それ故に、主イエスとの地上の別れを惜しむ惜別の気持ちと、主イエスの受難が避けることのできない神の定めであることを受け入れざるを得ない思いの中で、女性の心は深く引き裂かれ、その引き裂かれた心がこのような激しい行動となって表わされたのです。主イエスの受難の時が迫る中にあって、女性はこのような仕方で主イエスに対する自らの献身と敬愛の心を表わす以外になす術を知らなかったのです。
この女性の行為をとがめた人たちがいました。そこに居合わせた弟子たち(マタイ26章8節)でした。彼らは憤慨して「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」(4~5節)と言って女性を叱ったのです。そもそも弟子たちは主イエスの受難を理解することができなかったのです。なぜ神の御子メシアが受難を受けなければならないのか、主イエスは受難を受ける必要がないのではないか、主イエスは事実神から遣わされた御方なのだから、このまま栄光のメシアとしてご自身を現わしてほしいし、自分たちはそういうメシアの弟子でありたい。そういう思いを禁じ得ない弟子たちだったのです。つまり、弟子たちの心の中には主イエスの受難はない方がいい、いや、「無駄なことだ」という思いがあったのです。それ故に、主イエスに対して行った女性の行為に苛立ち、そんな「無駄使い」をするくらいなら、香油を三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に売ったほうが良かったと理屈を言ったのです。
それに対して主イエスは「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない」(6~8節)と言って、女性を弁護されたのです。「わたしはいつも一緒にいるわけではない」という御言葉は深い意味を持っています。主イエスが間もなく受難のために去って行かれるという意味で言われただけではなく、主イエスが霊的に共にいてくださるという恵み(インマヌエル)が決して常に自明的に与えられるものではなく、神の自由な憐みの中で(神の御心に適う時と所で)与えられる恵みであることを意味しているのです。だから、今、主イエスが共にいてくださることがかけがえのない恵みなのです。その恵みの中で、人は初めて肉の思い清められた者として真に貧しい人々に仕えることができるのです。そういう主の御臨在の恵み(インマヌエル)を尊び恐れることのない人間がどうして貧しい人々に真に仕えることができるかと、主イエスは暗に弟子たちの心の高ぶりを批判しておられるのです。
弟子たちは主イエスと一緒にいながら、主と共にある恵みの尊さを知らなかったのです。女性は主と共にある恵みのかけがえのなさを知る故に、その恵みが失われることを悲しみ、あのような行動を取ったのです。主イエスは女性の行動を弁護して「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」と言われました。いや、それ以上のことを言ってくださったのです。「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」(8~9節)と。世界中どこでもそしていつの時代にあっても、主の福音が宣べ伝えられる時には、この女性の行為は主イエスに対する模範的な献身の行為として覚えられるであろうと言われたのです。
主イエスは女性の名を明らかにされませんでした。そこには、この女性がどういう人間であるかは二の次であり、どのような人間であれ主イエスの受難を心から尊ぶ者こそ、主の福音(救い)に与るのに最もふさわしい人であるという主イエスのお考えが込められているのではないでしょうか。
武山教会牧師 柏木英雄