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教会だより

「ホサナ。祝福があるように」(棕梠の主日) ヨハネによる福音書12章12-19節(3/24説教)

 主イエスは、人々の歓呼の中をろばの子に乗ってエルサレムに入城されました。それはこれから主イエスの身に起こる十字架の死をろばの子のごとき従順をもって受け抜き、すべての人間に対する罪の贖いを実現するためでした。

 しかし主イエスは、十字架の死が目前に迫った時、ゲッセマネの園において深い苦悩の祈りをされました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。~イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(ルカ22章42~)とあります。

 なぜ、主イエスはこのような祈りをされたのでしょうか。十字架の死が怖くなったからでしょうか。そうではありません。十字架の死が、本来、主イエスにとって決してあってはならないことだったからです。まことの神の御子メシアが神を冒瀆する偽メシアとして(不信仰な者たちから)裁かれることは、主イエスの身に不義(不正義)が行われることであり、本来決してあってはならないことだったからです。しかし、そのような不義が行われなければ、人間の罪の贖い(罪の赦し)は決して実現することがなかったからです。そしてその不義が行われることが父なる神の御心であったからです。主イエスはこの二つの「絶対矛盾」の狭間で深く身を裂かれたのです。そしてその矛盾のただ中で、父なる神の御心と人々への愛の故に、主イエスは決然と十字架の死への歩みを進めていかれたのです。

 主イエスは、このゲッセマネの苦しみを経て十字架の死を遂げ、復活の命を現わされました。この主イエスの尊い十字架の御苦しみを知る私たちこそ、心からの感謝をもって「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」(13節)と主イエスのエルサレム入城を祝わなければならないと思うのです。

牧師 柏木英雄