教会だより
「主においては男なしに女はなく、女なしに男はない」 コリントの信徒への手紙一11章2-16節(7/14説教)
11節に「主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません」とあります。「主において」とは、主が共にいてくださるキリストの霊的臨在の恵みの中で、ということです。言い換えれば、主の救いの中で、ということです。そこにおいては、男女の区別はなく、一つである、と言うのです。
しかし、「主にある」救いに生かされるための祈り、言い換えれば、礼拝においては「すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、キリストの頭は神」(3節)という神の創造の秩序における違いが意味を持つ、とパウロは言うのです。
神の創造の秩序における男女の違いは、祈りにおいてあらわされる、と言えるのではないでしょうか。勿論、神の御前に一人の罪人として悔い改めの祈りを献げるという点では何の違いもありません。しかし、男性として悔い改めることと女性として悔い改めることの間には、悔い改めの内容において違いがあるのではないでしょうか。
つまり、男性は神の御前に(キリストを頭として持ちつつ)女性の頭として造られた者として「責任的に生きる」ことが神の御前に問われ、女性は(男性がキリストを頭として持つことによって、同じようにキリストに服しつつ)男性を頭として持つ者として「従順に生きる」ことが神の御前に問われているのではないでしょうか。共にキリストに服する点では同じですが、その服従の仕方(内容)に違いがあるのではないでしょうか。そのことが、礼拝において女性がヴェールをかぶり、男性はヴェールをかぶらないという習慣の中に表わされていた(4~5節)のではないでしょうか。
しかし、礼拝(祈り)の中で(主が共にいてくださる)キリストの霊的臨在の恵みが実現する時、「男なしに女はなく、女なしに男はない」という真の一致(共同)が生まれる、とパウロは言っているのではないでしょうか。
牧師 柏木英雄