文字サイズ
  • 文字サイズを中にする
  • 文字サイズを大にする
MENU CLOSE
キービジュアル

教会だより

「愛がなければ、無に等しい」 コリントの信徒への手紙一12章31-13章3節(9/22説教)

 パウロは12章28節で「神は教会の中にいろいろな人をお立てになった」と言って、使徒、預言者、教師、奇跡を行う者などを挙げています。確かにこれらの人々は神から特別な賜物を与えられていると言うことができますが、それ以上に「もっと大きな賜物」(31節)があり、それは誰もが受けることができる賜物であり、しかも、その賜物がなければ前述の特別な賜物(使徒、預言者、教師、奇跡を行う者など)も「無に等しい」(2節)ものとなる、そういう賜物があるとパウロは言うのです。それがすべての信仰者が追い求めるべき「最高の道」(12章31節)である「愛」であるとパウロは言うのです。このように語るパウロの中に確かな信仰者の姿を見ることができると思うのです。

 主イエスは、掟の中でどれが最も大切な掟であるかと問われ、第一が「神を愛すること」であり、第二が(第一の掟と表裏一体の関係にある)「隣人を自分のように愛すること」であると言われました(マルコ12章28節~)。この二つの掟(本質的には一つの掟)を真に実行された唯一人の御方が主イエスです。13章3節に「誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」とあります。もし主イエスが十字架の死に際して一瞬であっても「自分を誇る」思いがあったとしたら、主イエスの十字架の死は空しく、すべての人間の罪の贖いのための死とはならなかったのです。

 主イエスの十字架の死が真実の愛に基づく死であることの証明はどこにあるのでしょうか。それは主イエスのご復活にあるのです。主イエスの十字架の死が真実の愛に基づく真実の死であることを天の父なる神ご自身がお認めになられた故に、人間の罪と死に対する勝利である復活の命が主イエスにおいて明らかにされたのです。主イエスの中にのみ真実の愛があります。それなら私たちは常にこの御方に立ち帰り、この御方の命に絶えず新しく生かされる以外に、罪人である私たちが真実の愛に生きる道はないのです。

牧師 柏木英雄