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教会だより

「主と同じ栄光の姿に変えられる」(聖徒の日礼拝) フィリピの信徒への手紙3章17-21節(11/3説教)

 ヘブライ8章1節以下にこうあります。「わたしたちには、このような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられる」と。また、ヨハネ黙示録7章9節にはこうあります。「見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。『救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである』」とあります。
 神の御子イエス・キリストを中心とする「天上の礼拝」が描かれています。「白い衣を身に着けた」人々とは、「わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えて」(21節)いただいた人々です。この「天上の礼拝」に私たちの「地上の礼拝」が結び合わされているのです。私たちも主キリストの「執り成し」の中にあって、主の聖霊によるご臨在の恵みによって主御自身の「栄光ある体と同じ形に変えられ」つつ、「天上の礼拝」に連なる礼拝を行っているのです。そうであれば、すでに天に召された信仰の先達たちや愛する者たちも私たちの礼拝の交わりの中にいて、共に礼拝を献げているのです。
 18節以下に厳しいパウロの言葉が記されています。「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」と言っています。彼らとはユダヤ人キリスト者たちのことです。いずれにしても、自分中心の礼拝で、正しく「天上の礼拝」に連なる礼拝でなければ、そのような礼拝は真に神に祝福された礼拝ではなく、「腹を神とし、恥ずべきものを誇りとする」礼拝であり、その「行き着くところは滅び」でしかない礼拝である、と言っているのです。

牧師 柏木英雄