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教会だより

「わたしは復活であり、命である」(音楽礼拝) ヨハネによる福音書11章25-26節(11/17説教) 

 ヨハネ11章38節以下にラザロの死の現実が生々しく記されています。39節で「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」とマルタが言っています。しかし、主イエスは、40節「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われました。どうして主イエスはこのようなことを言うことができたのでしょうか。なぜ主イエスは死の現実に直面して「たじろぐ」ことがなかったのでしょうか。それは、主イエスが既にご自身の中に(罪と)死に勝利する神の全能の御力を経験しておられたからです。

 主イエスは、常に「アッバ、父よ」と天の父なる神との親しい祈りの交わりの中に生きられました。その時、主イエスは、天の神が親しくご自身の中に生きて働いてくださり、あらゆる人間的な罪の肉の働きが清められて、「清さ」の中に生きることができることを実感として感じておられたのです。祈れば、必ず父なる神が答えてくださることを主イエスは知っておられたのです。それ故に、主イエスは「信じるなら、神の栄光が見られる」と言うことがおできになったのです。41節以下の「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています」という祈りの言葉はそのことを意味しています。

 43節以下に「こう言ってから、『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。~」とあります。死人がよみがえらされるとは前代未聞の奇跡です。しかし、主イエスにとってはまた神の全能の御力からするなら、それは人が眠りから覚めるようにごく自然の事だったのです。

 ラザロの復活は主イエスにおける神の全能の御力の証しです。それ故に、主イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(25~26節)と言われたのです。

牧師 柏木英雄