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教会だより

「この僕を安らかに去らせてくださいます」(年末礼拝) ルカによる福音書2章22-38節(12/29説教)

 22~24節にマリアとヨセフが律法に従って幼子イエスを神に献げる儀式を行ったことが記されています。しかし、その姿には幼子イエスが神から与えられた特別な子供であるという意識が全く感じられません。そして、シメオンが「わたしはこの目であなたの救いを見た」(30節)と語った時、「父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた」(33節)とあります。

 なぜでしょうか。確かにマリアとヨセフは、幼子イエスが神から与えられた特別な子供であり、将来、救い主となる子供であると信じていましたが、それは幼子イエスが成長し、大人になってからのことと考えていたからです。その幼子イエスに対して、シメオンが「神の救いを見た」と語ったからです。

 では、なぜシメオンは幼子イエスを見て「神の救いを見た」と言うことができたのでしょうか。それはシメオンが聖霊の助けによって(27節)、この幼子の中に「神が共にいてくださる」(インマヌエル)ことを知ることができたからです。幼子イエスの中に、事実、神が共におられて、すでにこの幼子を通して神が救いの働きを始めておられることを知ることができたからです。

 幼子イエスは、成長して大人になって初めて救い主になるのではなく、幼子のままで、すでに神の御子、救い主なのです。幼子イエスを通して、事実、神がこの世の現実のただ中においでくださったのです。それ故に、幼子イエスはすでに幼子のままで(神共にいます御方として)罪を清められた清い御方であったのです。シメオンは聖霊の働きによって心の目が開かれることによって、そのことを知ることができたのです。それ故にシメオンは「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」と語ることができたのです。

 そうであるならまた、両親であるマリアとヨセフも聖霊(主の霊)によって心の目が開かれなければ、幼子イエスの中に「神の救いを見る」ことはできなかったのです。

牧師 柏木英雄