教会だより
「キリストが復活しなかったら」 コリントの信徒への手紙一15章12-19節(1/26説教)
12節に「あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」とあり、当時のコリント教会の中にもキリストの復活を信じることができない人々がいたことがうかがえます。キリストの復活は、死んだ人間が生き返るとだけ考えていては信じることができません。弟子たちも初めはそのように考え、復活の主イエスを目前にしても亡霊を見ているように思ってうろたえたのです。弟子たちが心から主イエスの復活を信じることができるようになったのは、主イエスの十字架が罪の贖いのための「苦難のメシア」の死であることを知ることによってでした(ルカ24章44節以下)。
主イエスの復活は主イエスの十字架の死から考えなければならないのです。主イエスが真実に敵を赦し執り成し祈りつつ十字架の死を遂げ、その主イエスの十字架の死を天の父なる神が、すべての人間の罪を贖う「贖いの死」(身代わりの死)として認めてくださる(!)ことによって、陰府に下った主イエスの死の体に神の全能の御力が働き、死の力が打ち破られて、初めて主イエスの復活が実現したのです。主イエスの十字架の死が真実に罪の贖いの死であることを天の神が認めてくださった故に、主イエスの復活が実現されたのです。主イエスの復活はそのように理解されなければならないのです。
そうであれば、そもそも死に勝利す全能の御力が神にはあるということです。そのことを主イエスがご自身の復活によって明らかにしてくださったのです。それなら、本来、神は死者を復活させる全能の御力を持っておられるのです。その意味で「死者の復活があるから、キリストの復活もある」(13節)という言い方が可能となるのです。キリストが復活しなかったとしたら、罪と死に勝利する神の全能の御力もなかったことになり、キリストを信じる者は「今もなお罪の中にある」(17節)ことになるのです。それならキリストを信じる者は「すべての人の中で最も惨めな者」(19節)と言わざるを得ないのです。
牧師 柏木英雄