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教会だより

「悔い改めにふさわしい実を」 ルカによる福音書3章7-20節(3/30説教)

 洗礼を受けようと集まって来た人々に対してヨハネは厳しい言葉を語りました。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。~斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(7~9節)。震え上がるような厳しさを持った言葉です。それでも多くの人々がヨハネのもとに集まって来たのは、ヨハネが本当に神に仕える人であると人々が信じていたからです。人々がヨハネの言葉を「神の言葉」として聞いたからです。

 ヨハネの言葉を聞いて「ではわたしたちはどうすればよいのですか」(10節)と尋ねた人々に対するヨハネの勧告は、意外と平凡な、当然と言えば当然の勧告ではないでしょうか。「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ」「規定以上のものは取り立てるな」「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ。」

 なぜヨハネは前半であれほど厳しい裁きの言葉を語ったのでしょうか。それは罪を罪として認めない偽善に対してなのです。律法を正しく守っているから自分は神の御前に正しいと誇っている人々(律法学者、ファリサイ派の人々)に対してなのです。形だけ正しい生活をしていても、心の中は罪の汚れに満ちているではないか。その偽善に気づいて、神の御前に悔い改めの心を献げよと迫っているのです(その点は主イエスと同じ!マタイ23章)。そうでなければ、神の赦し(聖霊の助け)に生きることができないとヨハネは言っているのです。

 後半の勧告は、どんなに自分の罪に気づいて悔い改めても、それによって正しい生活ができる訳ではないのだから、一人の罪人として慎ましい生活をして神の赦しと聖霊の助けを祈りつつ生活せよ、という意味が込められているのではないでしょうか。その意味を込めてヨハネはあのような穏やかな勧告をしているのではないでしょうか。どこまでも謙遜なヨハネであると思うのです。

牧師 柏木英雄