教会だより
「わたしの愛する子、心に適う者」 ルカによる福音書3章21-22節(4/6説教)
21節に「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」とあります。多くの群衆に混ざって、群衆の一人として主イエスもヨハネから洗礼を受けられたのです。謙遜な主イエスの姿が示されています。
なぜ主イエスはヨハネから洗礼を受けられたのでしょうか。ヨハネの洗礼は「悔い改めの洗礼」です。それなら主イエスにも悔い改めるべき罪があったのでしょうか。そうではありません。主イエスは御自身を父なる神に献げることによって常に聖霊に守られた、罪のない清い御方です。その主イエスが洗礼を受けたということは、主イエスがすべての罪ある人間と同じ立場に立って生きることを意味していたのです。
そしてこのことの中に、主イエスがすべての罪ある人間に代わって、罪人を代表して十字架の死を遂げるということが意味されていたのです。主イエスはすべての人間の罪の贖いのために十字架の死を遂げるという決意をもって、ヨハネから洗礼をお受けになったのです。主イエスの洗礼にはそういう意味が込められていたのです。
23節に「イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった」とあります。それなら主イエスはメシアとしての公生涯を始める前の30年間繰り返し御自身の十字架の死について考え、30歳になってその決断をされたのです。
21節後半以下に「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」とあります。このことによって主イエスが神から祝福された方であることが人々に明らかにされましたが、なぜそうであるかは誰にも(ヨハネにも!)分かりませんでした。
主イエス御自身だけがそのことを知られたのです。主イエスはこれによって御自分の十字架の死への決意が神に祝され、喜ばれていることを知り、この神の励ましの中に主イエスは決然と十字架の死に向かってメシアとしての公生涯を始められたのです。
牧師 柏木英雄