教会だより
「一人一人に手を置いて」 ルカによる福音書4章38-41節(7/20説教)
38節に「イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった」とあります。主イエスがペトロの「家」に入られたこと自体が意味深いことではないでしょうか。主イエスが「家」に入られた時、言い換えれば、主イエスを自分の「家」に迎え入れた時、何が起こるのでしょうか。その家全体が「神共にいます」主イエスの恵みによって包まれることを意味するのです。その時、その家のすべての問題、言い換えれば、私たちの日常生活のすべての問題が基本的に解決されることを意味するのです。すべての問題を主が導いてくださるからです。
問題は、私たちが本当に主イエスを自分の家に迎え入れているかどうかです。主イエスを迎え入れているつもりでいながら、実は自分中心の日常生活になっていないかどうかです。そのことが真剣に問われているのです。
40節に「イエスはその一人一人に手を置いていやされた」とあります。このことに関連してマタイ8章17節「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」を思い出します。これはイザヤ53章4節「苦難の僕」の言葉の引用です。つまり、主イエスは一人一人に手を置かれることによって、一人一人の病をご自分の身に負いながら癒しをされたということです。
言い換えれば、主イエスの癒しは「贖罪的」であったということです。ただ手を置き神の全能の御力によって癒しを行われたというだけでなく、一人一人の病を代わって身に負いながら癒しを行われたのです。つまり、主イエスの癒しの中にすでに主イエスの十字架と復活の恵みが働いていたのです。主イエスはすでに十字架と復活の恵みの中にありつつ癒しを行われたのです。
それなら、主イエスを自らの家に迎え入れるとは、十字架と復活の恵みの主イエスを迎え入れ、その恵みによって私たち自身が新たにされることであることを覚えたいと思います。
牧師 柏木英雄