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教会だより

「安息日に許されているのは」 ルカによる福音書6章6-11節(9/21説教) 

 7節に「律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた」とあります。彼らのこのような態度自体が既に安息日の礼拝にふさわしくなかったのです。心が神へと向かわずに、主イエスを訴える口実を探すことに向けられていたのです。彼ら自身が真に安息日を守っていなかったのです。

 主イエスは「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」(9節)と言われました。確かに安息日は、一切の労働を止め、祈りと礼拝に集中すべき時です。しかし、安息日律法にも例外規定がありました。緊急に人の命を救わなければならない時は、安息日を守らなくてもよかったのです。律法学者たちは律法の専門家としてそのことをよく知っていたのです。それなら、そういうことを主イエスに話して、主イエスと対話すべきだったのです。そうすれば、彼らも主イエスに対する理解を深めることができたはずなのです。

 しかし、「彼らは黙っていた」(マルコ3章4節)のです。何の応答もしなかったのです。彼らは既にイエスを訴えようと決心していたからです。その彼らの「心の頑なさ」を悲しみ、怒りながら(マルコ3章5節)主イエスは、右手の萎えた人に「手を伸ばしなさい」と言われ、癒しを行われたのです。彼らはそれを自分たちに対する挑戦と見なし「怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」(11節)のです。

 彼らの憎しみの故に、主イエスの十字架の死はいよいよ避けられないものとなったのです。しかし、それによって、主イエスの十字架と復活を通してすべての罪人を救おうとする神の救いのご計画はいよいよ確実なものとなっていくのです。不思議な神の摂理を思わされます。

牧師 柏木英雄