教会だより
【読書紹介】「わたしを変えた一冊」カール・バルト著『福音主義神学入門』
<シリーズ・信仰の読書>
「わたしを変えた一冊」カール・バルト著『福音主義神学入門』(1962年)
(加藤常昭訳 新教セミナーブック18)
武山教会牧師 柏木英雄
この書物は、神学者カール・バルトの最晩年の著作でバルト神学の真髄が語られている「珠玉のような」名著と言われていますが、決して難解なものではなく、私たちの信仰の豊かな養いになる書物です。確かに簡単に読めるものではありませんが、じっくり時間をかけて味わいながら読むことによって深い神学(信仰)の世界に導かれます。私自身座右の書として繰り返し信仰の慰め励ましを受けてきました。
まず注目すべきは目次です。見事に整理されていてこれを眺めるだけで深く心が惹かれます。全体が大きく四部に分かれ、その中にそれぞれ四つの講が整然と簡潔な言葉で配分されています。それを紹介しますと、(第一講を除いて)
- 第一部「神学の場所」:第二講「言葉」、第三講「証人」、第四講「教会」、第五講「霊」
- 第二部「神学的実存」:第六講「驚異」、第七講「捕捉」、第八講「義務」、第九講「信仰」
- 第三部「神学の危険」:第十講「孤独」、第十一講「疑い」、第十二講「試練」、第十三講「希望」
- 第四部「神学 作業」:第十四講「祈り」、第十五講「研究」、第十六講「奉仕」、第十七講「愛」
となっています。
どれも大変充実した内容を持っています。目次を見て、自分に関心のある講(テーマ)を選んで読むことができます。私自身の関心に従って少し内容を紹介させていただきます。第五講「霊」のところでは、霊的でない神学はこの地上のあらゆる暴虐な所業の中の最も暴虐な所業の一つで、それに比べるならどんなにひどい政治社説記事も最悪の小説や映画も不良少年のあくどい夜の非行行為も常にまだましであると言っています。巧みな比喩を使って、霊的な神学(説教)の重要性が強調されています。第七講「捕捉」では、神学的実存は神学と取り組む者自身の個人的実存に深く関わっており、一人の人間として神の御前にどう生きているかが真剣に問われると言います。神学の生ける対象(神)は神学者(説教者)の全人格に関係を持ち、神学者は自分の最も私的な内面生活においても神学の生ける対象から逃れることはできないと語ります。十一講「疑い」では、神学者は自分もまた神(啓示)を疑う者であることを恥じてはならず、疑いのただ中で「御国を来らせ給え」と祈ることによって、疑いを克服していくべきであり克服することができると語ります。
この書物の最も深い部分は十二講「試練」であると思います。神からの試練(問い)こそ、神学作業を襲う最も深刻な「死に至る病」であると言います。一言で言えば、神は聖霊を拒む自由を神学者(説教者)に対しても持っておられるということです。そして神学者は、そのことに直面して自分の業が全く無力であることに苦しまざるを得ないと言うのです。(そういう神の試練に全く気付いていないというもう一つの深刻な現実もあると言うのですが。)そのようなすべてを灰燼に帰する神の試練に対して人間は身を守る術がなく、その神の試練(攻撃)にさらされ、全くの惨めさを思い知らされ、ただ神の憐れみの恵みの中で新しく生かされることによってのみ、神学作業(説教)は有益な業となることができると言うのです。身のすくむような厳しさと神の愛の真実を教えられます。
バルトはこの書の最後を「愛」(アガペー)という講で締めくくっています。ここで、アガペーとエロースの愛の対比をモーツアルトとベートーベンの音楽の対比になぞらえて語っていることに興味を惹かれます。いずれにしても神学作業(説教)は、愛(アガペー)の中でなされなければ全く「無に等しい」(Ⅰコリント13章2節)業であり、その愛は生けるキリストご自身の霊的臨在の恵みの中にあるが故に、神学作業はひたすら主の憐れみの助けを求めて祈りつつ行う業とならざるを得ない、と結んでいます。
バルトが語る神学作業(説教)の奥深さ、豊かさ、健全さが示され、読むたびに襟を正されると共に深い喜びを覚えさせられます。
(日本基督教団改革長老教会協議会 季刊『教会』No.119所収 2020年5月