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教会だより

「良い土地に落ちた種」 マルコによる福音書四章三~九節

 主イエスは、「種まきのたとえ」を通して神の言葉を聞く人間のあり方についてお語りになりました。「道端」に落ちた種とは、神の言葉がまったく心に入らない人のことであり、「石地」に落ちた種とは、喜んで御言葉を受け入れるが、艱難や迫害が起こるとすぐに躓いてしまう人のことであり、「茨」の中に落ちた種とは、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろの欲望に妨げられて、信仰者としての実を結ぶことができない人であり、「良い土地」に落ちた種とは、豊かに御言葉に生かされて、三〇倍、六〇倍、百倍もの実りをもたらす人のことを指している、と言われるのです。そしてこのたとえの終わりのところで主イエスは、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われたのです。言い換えれば、この種まきのたとえを表面的に理解するのでなく、その言わんとする意味を深く味わいなさい、と言われたのです。

 

 そもそも「良い土地」に蒔かれた種とは、どのような人のことを指しているのでしょうか。それは、自分が決して「良い土地」ではない、むしろ自分こそ「道端」であり「石地」であり「茨」であることをよく知っている人のことではないでしょうか。言い換えれば、神の御前に真に謙遜に立ち、御言葉に生かされる人は、決して自分が謙遜で、誠実な人間とは思わない、むしろ、自分は神の御前にいつも不誠実で、神の言葉に対して常に自分の思いを立てる不従順な人間であることをよく知っているのではないでしょうか。その意味で、自分が「道端」であり「石地」であり「茨」であることをよく知っているのではないでしょうか。それ故にこそ、憐れみの恵みの神に対していよいよ真剣に赦しと助けを祈り求めるのではないでしょうか。そしてその切なる祈りを神が聞いてくださることによって、自分でも知らない間に、三〇倍、六〇倍、百倍もの実を結ぶ人となるのではないでしょうか。

 主イエスの弟子たちも、決して自分たちが「良い土地」であるとは思わなかったのです。いや、自分たちが「良い土地」であると思っている間は、真に主の弟子として働くことはできなかったのです。自分たちが決して「良い土地」ではなく、むしろ「道端」であり「石地」であり「茨」であることを思い知らされることを通して、初めて本当に主の弟子として生きることができる者とされたのです。

 弟子たちは、皆、主イエスの十字架に躓きました。弟子たちは主イエスの十字架を信じ抜くことができなかったのです。主イエスが捕らえられた時、弟子たちは皆逃げてしまいました。ペトロは三度主を否みました。まったく主の弟子にふさわしくないものであることが明らかになったのです。この時、弟子たちは自分たちこそ誰よりも主イエスを信じる者であるという心の思い上がりが完全に打ち砕かれたのです。まったく主イエスの弟子にふさわしくない、いや、主イエスを信じない者と少しも変わりがない、それどころか、主イエスを十字架につける人々と同じ罪人そのものであることを思い知らされたのです。そして弟子たちは、そのように心砕かせられることによって、初めて復活の主に出会うことを許され、復活の主の命に生かされる者とされたのです。それによって初めて弟子たちは本当の主の弟子になることができたのです。そうであれば、弟子たちの躓きは必要なことだったのです。そのことなしに弟子たちが真に主の弟子となることはなかったのです。主イエスの十字架に躓くという辛い経験を通して、弟子たちは真に主の弟子として用いられるものとなったのです。

そのようにして主の弟子として生かされる者となった時、弟子たちは自分が決して「良い土地」ではなく、「道端」であり「石地」であり「茨」のような人間でしかないことを知り、いよいよ真剣に憐れみの主の恵みに頼ることによって、三〇倍、六〇倍、百倍もの実を結ぶ者となったのです。

 使徒パウロは、ローマの信徒への手紙七章二四節以下で「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と言っています。自分の惨めさを知ればこそ、パウロはいよいよ深く主キリストの命に生かされるものとなったのです。

 信仰者こそ、自分が決して「良い土地」ではなく、「道端」であり「石地」であり「茨」のような人間であることをよく知っているのです。そうであるからこそ、いよいよ真剣に主に頼ることによって、自分でも知らない間に、三〇倍、六〇倍、百倍もの実を結ぶ者とされるのです。主イエスは、ヨハネによる福音書一五章五節で「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」と言われました。自分の不信仰、罪深さを知る者こそ、いよいよ深く主に結びつくことによって、豊かな実を結ぶ者とされるのです。そうであれば、主イエスの「良い土地に落ちた種」のたとえは、自らの貧しさを知る者にとっては、希望の御言葉なのです。

牧師 柏木英雄
(教会だより2019年10月号)