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教会だより

「夜は更け、日は近づいた」 ローマの信徒への手紙13章11-14節

 12節に「夜は更け、日は近づいた」とあります。夜が更けるということは、時計の針で言えば、針が夜中の12時に向かって進んで行くことです。日が近づくということは、時計の針が夜中の12時を回って、夜明けを目指して進んで行くことです。ですから、「夜は更け、日か近づく」ということは、時計の針が夜中の12時に向かって進んで行き、夜中の12時を回り、夜明けに向かって進んで行くという「時の認識」を語っていることになります。聖書は今がそのような「時」であると言っているのです(11節)。 

 聖書はどこからこのような時の認識を得て来ているのでしょうか。それは、主イエス・キリストの十字架の出来事の中にその認識の根拠を得ているのです。なぜなら、主イエスの十字架は、人間の罪の闇が最も深くなった出来事、或いは、人間の罪の闇が本当に深いことが明らかになった出来事だからです。まことの神の御子メシアである主イエスが正しく理解されず、あろうことか「これはメシアではない、神と人を欺く偽メシアである」として断罪され、のろいの木につけられたからです。人間の心の目が全く曇らされることによって起こった出来事だからです。その意味で、主イエスの十字架は人間の罪が最も深くなった「真夜中の出来事」と言うことができるのです。

 しかし、その十字架の死を主イエスが真実の愛と赦しと執り成しの祈りをもって受け抜いてくださることによって、まだ誰もその道を開くことができなかった罪と死に勝利する復活の命の道が開かれたのです。そして、その後に続く聖霊降臨日の出来事によって、主イエスの救いの働きが始められたのです。ただ、その主イエスの救いの働きは、聖霊によって行われる働きですから、信じる者には明らかであっても信じない者の目には隠されているのです。しかし、その隠された主イエスの救いの働きが今や全ての人の目に明らかになる時が来る、と聖書は語っているのです。なぜなら、時は今や夜中の12時を回り、夜明けを目指して進んでいるからです。時は、夜中の12時を回れば、後は夜明けを目指して進んでいくばかりだからです。そのように主イエスの救いは今やその完成である夜明けを目指して進んでおり、私たちは今そのような時の中に生きているのだから、「眠りから覚め」(11節)、罪と闘う信仰の生活に励みましょう、と聖書は語っているのです。

 この世の闇がどんなに深く、この闇が永遠に続くかのように思われるとしても、決してそうではなく、必ずこの闇が取り除かれる夜明けの時が来るのです。なぜなら、時は既に夜中の12時を回っているからです。だから、主の救いの夜明けに備えて、主の救いに生きる信仰の生活に励みましょう、と私たち信仰者を励ましているのです。

 「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」(12節)と言っています。どうしたら「闇の行いを脱ぎ捨てる」ことができるのでしょうか。それは「光の武具」である主イエスを身に着けることによってです。それ以外に、私たちは罪と闘う力を持たないのです。主イエスこそ、罪の闇に輝くただ一つの光なのです。この主に頼るのです。この主のもとに来るのです(Ⅰペトロ2章4節)。その時、主は私たちを喜んで受け入れてくださり、罪と闘う力を与えてくださるのです。

 「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」(13節)とあります。これが私たちの「闇の行い」です。2つの言葉をセットにして簡潔に私たちの罪の現実が3つにまとめられています。私はこちらの罪は重いかもしれないが、あちらの罪は軽いなどということではないのです。どの罪も同じ一つの罪の3つ現れにすぎなのです。これらの罪を私たちは自分で清めるは不可能です。ただ、この罪の現実を携えて主のもとに来るのです。その時、主が、放蕩息子に新しい衣を装わせてくださった父親のように、主ご自身の命によって私たちを装ってくださるのです。それが「主イエス・キリストを身にまとう」ということです。私たちが「主イエスを身にまとう」ことができた時、私たちは初めて「欲望を満足させようとして、肉に心を用いる」(14節)誘惑から解放されることができるのです。

 旧約聖書民数記21章4節以下に「青銅の蛇」のことが記されています。罪を犯し、神の裁きを受けて倒れた者たちが、神の助けを求めてモーセに訴えた時、神はモーセに、青銅の蛇を造り、それを旗竿に掲げ、それを仰ぎ見ることによって救われる道をお示しになりました。罪を犯して傷つき倒れ、もう何もすることができないという困窮の中にあっても、その場所で目をあげ、青銅の蛇を仰ぎ見ることはできます。いや、それ以外にできることはないのです。しかし神は、それでよい、そのことをしなさい、と言ってくださるのです。

 この青銅の蛇こそ、主イエス・キリストご自身です。主イエスはすべての人間の罪の贖いのために、十字架に高く掲げられ、その死によって復活の永遠の命の道を開いてくださったのです。この主イエスを仰ぐのです。この主にすがるのです。その時、主は私たちをご自身の命によって装い、罪と闘う力を与えてくださるのです。

 「夜は更け、日は近づいて」いるのです。だから、「光の武具を身に着け」「闇の行いを脱ぎ捨て」「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか」と、聖書は、いつ果てるとも思われない深い夜の闇の中にあって私たちの信仰を励ましていてくれるのです。

牧師 柏木英雄