教会だより
「子ろばを連れて来なさい」 マルコによる福音書11章1~11節
主イエスはいよいよ十字架におかかりになるためにエルサレムにお入りになりました。十字架にかかることにとって人間の罪を贖うことは、主イエスのメシアとしての公生涯の最初からの目標でした。
しかし、それは主イエスの今までのメシアとしての歩みの180度の転換、「裁く」方から「裁かれる」方への転換を意味する歩みでもありました。今まで主イエスは神共にいますお方として正しく人々の信仰を「裁く」方、力強く癒しの奇跡を行われる方として歩まれました。弟子たちはそういう主イエスを信じ、そういう主の弟子として生きることに深い喜びを覚えたのです。しかし、今や主イエスは「裁かれる」方としての歩みを始められるのです。人々、特にイスラエルの指導者たちに裁かれることを通して罪を担い、それによって罪を贖うためでした。そしてそれこそ主イエスのメシアとしての真の目標だったのです。しかし、弟子たちはその主イエスに躓いたのです。本来主イエスが「裁く」べき相手に主イエスが「裁かれる」ことに弟子たちは今までとは違う「見知らぬ」主イエスの姿を見る思いがしたのです。ペトロが3度主イエスを否定したのはそのためでした。
その意味で、主イエスのエルサレム入城は今までの主イエスの歩みの180度の転換を意味したのです。そして主イエスはそのことを表すために、旧約聖書ゼカリヤ書九章九節以下の預言に従って「ろばの子」に乗って「柔和な王」「平和を実現する王」としてエルサレムにお入りになるのです
2節で主イエスは「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい」と言われました。これは主イエスが前もって準備したようにも思えますが、むしろ神がそのように準備してくださったと理解することができるのではないでしょうか。11章23節で主イエスは「だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりなると信じるならば、そのとおりになる」と言っておられます。そのことがここで実証されているのです。主イエスが願われることをそのとおりに神が実現してくださるのです。なぜなら主イエスは今、神の御心に従って受難の業を実行しようとしておられるのですから。その主イエスの願いに神は全力で応えてくださったのではないでしょうか。
3節に「もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい」と言っておられます。ここで主イエスはご自分を「主」(救い主)と言い表しておられます。相手もそのことを理解したのです。そして救い主が必要としておられるなら、持ち主は喜んでろばの子を貸してくれるというのです。誰か他の人であればそう簡単にことは進まないのです。なぜならろばの子は人々にとって大切な財産なのですから。しかし、救い主がお入り用であるというなら、人々は喜んで貸してくれるというのです。ここにも不思議な神の導きを見ることができるのではないでしょうか。
2節に「まだだれも乗ったことのない子ろば」とあります。主イエスが「まだだれも乗ったことのない」子ろばをお用いになるのは主イエスが「まだだれも歩んだことのない」受難の道を歩まれるからです。「悪をもって悪に報いず」「善をもって悪に勝つ」仕方で(ローマ12章)、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになる」仕方で(Ⅰペトロ2章)十字架の死を遂げることは、まだだれも果たすことができなかった道、否、神共にいます主イエスにして初めて歩むことが可能な道だったのです。主イエスはその道を歩み抜くことによって罪の贖いを実現しようとしておられるのです。そうであれば、その道を歩むために「まだだれも乗ったことのない」子ろばを用いることがふさわしいと主イエスはお考えになったのです。
ろばの子に乗る主イエスの姿は決して見栄えのするものではありませんでした。しかし、子ろばに乗る主イエスに不思議な権威があったのです。その権威に打たれて人々は詩編118編の言葉によって主イエスのエルサレム入城を歓呼して迎えたのです。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」と。
人々は主イエスが十字架にかかるためにエルサレムにお入りになることを知りませんでした。人々は主イエスが「栄光のメシア」としてエルサレムに入城されると思ったのです。まさか主イエスが十字架にかかることによってメシアの業を完成されるとは夢にも思わなかったのです。それなら人々は正しく主イエスのエルサレム入城を理解して主イエスのエルサレム入城を祝ったわけではなかったのです。しかし、主イエスはそういう人々の歓呼を喜んで受け入れられたのです。なぜなら、主イエスが十字架の死を全うすることによってメシアの業を完成することにはちがいがなかったからです。主イエスはむしろ人々の歓呼をご自身への励ましとして受け止められたのではないでしょうか。十字架の死を全うすることによって神から託されたメシアの業を完成するようにとの神からの励ましとして人々の歓呼を受け止めつつ、主イエスはろばの子に乗ってエルサレムにお入りになったのではないでしょうか。
人々はそして弟子たちも主イエスのろばの子に乗ってのエルサレム入城を正しく理解することができませんでした。しかし、私たちは主イエスのエルサレム入城の正しい意味を知っています。そうであれば、私たちこそ心からの歓呼をもって主イエスのエルサレム入城を祝うべきであると思うのです。
牧師 柏木英雄