文字サイズ
  • 文字サイズを中にする
  • 文字サイズを大にする
MENU CLOSE
キービジュアル

先週の説教より

「御言葉を受け入れる人たち」 マルコによる福音書4章13-20節

 「良い土地」に蒔かれた種にたとえられる「御言葉を受け入れる人たち」(20節)とは、御言葉によって生きる私たち信仰者のことです。そういう私たち信仰者こそ、神の御前に自らを省みる時、「道端」「石地」「茨」のような状況があることを認めざるを得ないのではないでしょうか。

 「道端」とは、まったく御言葉を受け入れない人たちのことですが、私たちにもそういう面があるのではないでしょうか。無意識のうちにまた本能的に御言葉に聞かず、自らの思い(好み)に従って生きている現実があるのではないか。気づかずに信仰と不信仰の二元論の中に生きているのです。この自らの「闇」の部分に主の恵みの光を当て、主によって清められる聖化の道を、生涯を通して歩むことが求められている、と思うのです。

 「石地」に落ちた種とは、「御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、~御言葉のための艱難や迫害が起こると、すぐ躓いてしまう」人のことです。私たちは命の危険が迫る迫害に耐えることができるでしょうか。私たちの信仰が試される「試練」の時が来るのです。その時に備えて、平穏な日々の生活の中で主に頼る信仰の「訓練」に励むべきではないでしょうか。

 「茨」の中に落ちた種とは、「御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、~いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない」人のことです。これこそ私たち信仰者の日常の姿ではないでしょうか。信仰の「観念化」の現実です。自分の信仰(信念)によってではなく、生ける主キリストの御臨在の恵みに与って生きる「生きた」信仰が求められているのです。  「道端」「石地」「茨」の状況を踏まえた信仰者こそ、主にあって「良き土地」として「御言葉を受け入れる人たち」なのです。

牧師 柏木英雄
(2019年10月13日週報)