先週の説教より
「少しも疑わず、信じるなら」 マルコによる福音書11章20-25節(2/28説教)
主イエスは、あえていちじくの木を呪って枯らすことによって、主イエスが神の全能の御力の中に歩むお方であることを弟子たちに証しされたのです。主イエスがイスラエル指導者たちによって捕らえられ、「神に呪われた者」として十字架につけられるとしても、主イエスこそまことのメシアであるとして弟子たちが信じ抜くようにとの配慮からでした。
そして主イエスは、このいちじくの木の奇跡を通して「神を信じる」ことの大切さを弟子たちに教えられたのです。「はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる」(23節)と言われるのです。「山に向かって、立ち上がって、海に飛び込め」とは大変極端な言い方ですが、主イエスはこのことを通して私たち人間の「罪」が取り除かれることを言わんとしておられるのです。なぜなら、私たち人間には「山」のような、否、山以上に不動な罪の現実があるからです。しかしそのような罪も、主イエスの御力を「少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるなら」一瞬のうちに取り除くことができる、と主は言われるのです。
私たちは自分の罪が取り除かれ清められることを信じていないのではないでしょうか。自分の罪深さに絶望しているのではないでしょうか。しかし、主の御力によって罪清められることを信じて、自分の罪に向かって「立ち上がって、海に飛び込め」と命じ、そのことを「少しも疑わず、信じるなら」、私たちは一瞬のうちに罪清められ、「主にある平安」の中に生かされている自らを感謝と喜びの内に見い出すことができるのです。
牧師 柏木英雄