先週の説教より
「何の権威によって」 マルコによる福音書11章27-33節(3/7説教)
主イエスが神殿の境内を歩いておられた時、祭司長、律法学者、長老たちが来て「何の権威で、このようなことをしているのか(28節)と言って、主イエスの振る舞い(宮清め)を批判しました。それに対して、主イエスは「では一つ尋ねるからそれに答えなさい。~」と言い、ヨハネの洗礼が「天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」(30節)と尋ねたのです。
私たちは主イエスの口から、突然、バプテスマのヨハネの名が語られたことに驚かされるのではないでしょうか。ヨハネは「わたしの後から来る方はわたしよりも優れている。わたしはその人の履物のひもを解く値打ちもない」と言って、人々に主イエスを紹介し、そのヨハネの紹介と後ろ盾の中で主イエスのメシアとしての公生涯が始められたのですから、主イエスにとってヨハネが大切な存在であったことは言うまでもありません。しかし、そのヨハネも今はなく、主イエスのメシアとしての歩みも最終段階に入り、主イエスにとってヨハネはもはや「過去の人」のように思われたのですが、決してそうではなかったのです。主イエスの心の底流には地下水脈のようにヨハネに対する深い敬愛と感謝の念があったのです。
主イエスがヨハネから洗礼を受けた時、天が裂け聖霊が鳩のように下り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声があり、それによって受難への決意の正しさ(御心に適うこと)を確信した主イエスでした。そうであれば、ヨハネの洗礼が「天からのもの」であったことは明らかです。それにも関わらず「分からない」(33節)と答えたイスラエル指導者たちの不真実に対して、主イエスは「それなら、何の権威によってこのようなことをするのか、わたしも言うまい」と言われたのです。
牧師 柏木英雄