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先週の説教より

「ぶどう園の主人」 マルコによる福音書12章1-12節(3/14説教)

 主イエスの「権威」を問題にした(11章28節)イスラエル指導者たちに対して、主イエスは「ぶどう園」のたとえを話されました。その中で「『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』」(6~7節)と話されました。

 「愛する息子」を殺すとは、神から遣わされたメシアを殺すということです。「相続財産」を自分たちのものにするとは、「ぶどう園」、即ち、神の民イスラエルを自分たちの所有物にするということです。つまり、メシアの助けなしに、自分たちの力で神の民として生きていくということです。イスラエル指導者たちが主イエスを拒みこれを亡き者にするということは、そういうことを意味している、と主イエスは言っておられるのです。彼らは本当にはメシアを必要としていないのです。自分たちの力で律法を行うことによって神の民として生きていけると高ぶって考えているのです。主イエスはそのことを言わんとして「ぶどう園」のたとえをお話になったのです。

 そういうイスラエル指導者たちに対して神がなさることは、本来なら「農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与える」に違いない(9節)ことなのですが、実際に神がなさることは「家を建てる者の捨てた石」を「隅の親石」にすることである(10節)、と主イエスは言われるのです。「隅の親石」とは、十字架の死を遂げ復活される主イエスのことです。つまり、神はイスラエル指導たちも主イエスの十字架と復活の恵みに与らせると言われるのです。ぶどう園の主人はイスラエル指導者たちに対しても計り知れない愛を示される方なのです。

牧師 柏木英雄