先週の説教より
「わたしの羊を飼いなさい」 ヨハネ福音書21章15-19節(5/9説教)
復活の主イエスが3度「わたしを愛しているか」とペトロに問われた時、ペトロは復活の主が自分のあの3度の否みに触れつつ語っていることに気づかされました。直接言葉に出しては語られませんでしたが(そこに主の愛の配慮がありました!)、あの時のペトロの否みに触れつつ、もうあのようなことはありませんね、と復活の主に念を押されていることに気づき、ペトロは改めて自分の過ちを思い起こし、深い「悲しみ」を覚えたのです(17節)。
主イエスが捕えられ裁きを受けられた時、あの時こそペトロは主イエスを告白すべきだったのです。「このお方こそまことのメシアである」と。それにもかかわらず、あろうことか「そんな人は知らない」と3度主を否んでしまったのです。しかもそれは偽らざるペトロの気持ちでもあったのです。敵に裁かれるままにされる主イエスの中に自分の「知らない」イエスを見、それに嫌悪する自分があったのです。そこまで身を低くされる主イエスに対して。全く主の弟子にふさわしくない者であったのです。それにも関わらず、そのようなペトロを見捨てず、なお主の弟子として受け入れてくださる復活の主の愛を知った時、ペトロは主イエスの十字架が自らの罪を贖う贖いの死であることを真に理解することができ、今こそ本当に主の弟子として主を信じて生きていきたいと心の底から願うペトロだったのです。
それ故に、復活の主イエスに3度主への愛を問われた時、ペトロは「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」(17節後半)と答えることができたし、そう答える以外になかったのです。その時、復活の主イエスは「わたしの羊を飼いなさい」と言って、改めて正式にペトロを主の弟子として召されたのです。
牧師 柏木英雄