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先週の説教より

「ダビデとメシア」 マルコによる福音書12章35-37節(6/20説教) 

 律法学者たちは、来るべきメシアは「ダビデの子」、即ち、ダビデの再来のような偉大なこの世的指導者であるはずだから、その点から考えてイエスは来るべきメシアではない、と主イエスを批判したのです(35節)。

 それに対して主イエスは、詩編110編1節を取り上げてこう反論されたのです。ダビデ自身が聖霊を受けてこう言っているではないか「主は、わたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着きなさい。~』と」。つまり、ダビデ自身が自分の後に来るメシアを「わたしの主(神)」と言っているではないか。それならどうしてメシアが「ダビデの子」、即ち、この世の偉大な指導者であると言うのか。そうではなく、来るべきメシアはこの世を超えた霊的な指導者である。そう言って主イエスは律法学者たちに反論されたのです。

 ダビデはかつて自分の部下ウリアの妻とのことで姦淫の罪に問われた時、聖霊の導きの中で自分が神の御前に全く一人の罪人にすぎないことを深く自覚しこう祈りました。「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ~」(詩編51編12~14節)と。ここにダビデのメシア観が示されています。つまり、自分の後に来るメシアは深い罪の中にある者を憐れみ、赦し、その者の内に「清い心を創造し、新しく確かな霊を授けて」くださる「神の右の座に着く」霊的な指導者である。そういう(メシア)認識へとダビデ自身が聖霊を受けて、深い悔い改めの中で導かれたのです。主イエスはこのダビデの認識を取り上げて律法学者たちに反論されたのです。

牧師 柏木英雄