先週の説教より
「律法学者に気をつけなさい] マルコによる福音書12章38-40節(6/27説教)
主イエスは「律法学者に気をつけなさい」(38節)と言われました。主イエスを信じる信仰生活の中で最も警戒すべきは、律法学者の生き方である、と言われるのです。律法学者の生き方とは、一言で言えば、神の律法を誠実に生きれば、神に祝福され救われる、ということでしょう。言い換えれば、人間として誠実に努力し良い業に励めば、神に祝福され救われる、ということです。それは人間的には大変尊い生き方かもしれません。しかし、まさにそのような生き方こそ、主イエスを信じる信仰においては妨げとなるのです。なぜなら、そのような生き方はかえって神の御前における「悔い改め」を妨げることになるからです。神がお求めになることは人間としての立派さ、正しさ(義)ではなく、神の御前に一人の罪人として真に謙遜に立つことだからです。そこに聖霊によって主イエスの命に生かされる救いの生活が懸かっているのです。
主イエスは律法学者を批判して「彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み~見せかけの長い祈りをする」(38~40節)と言われました。これらは一言で言えば「虚栄」的な生き方ということでしょう。しかし、虚栄的な生き方がいけないと言って、誰もそれを避けることはできないのです。どんなに誠実に生きようとしても、虚栄的な生き方を避けることはできないのです。大切なことは、そこに自らの罪があることに気づくことなのです。そしてそれを神の御前に誠実に告白し、主イエスの十字架と復活の恵みに頼ることなのです。そこに主の霊に生かされ、真の正しさに生きる道があるのです。律法学者の生き方はそういう信仰生活の妨げとなるのです。それ故に、主イエスは「律法学者に気をつけなさい」と言われるのです。
牧師 柏木英雄