先週の説教より
「主イエス受難の計画」 マルコによる福音書14章1-2節(8/22説教)
1節に「さて、過越祭と除酵祭の二日前になった」とあります。それは、主イエスの十字架の死が二日前に迫ったということを意味しました。なぜなら、主イエスは「過越祭」のただ中で「過越の小羊」として十字架につけられることになっていたからです。それが神のご計画でした。
ところが、「祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた」のですが、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」(1b~2節)と話し合い、過越祭と除酵祭以外の時にイエスを殺そうと彼らは計画していたのです。神のご計画と人間の計画の間に齟齬が生じたのです。
しかし実際には、主イエスはまさに神のご計画通り過越祭のただ中で十字架にかかり、「過越の小羊」として罪の贖いの死を成就されたのです。どうしてそのようなことになったのでしょうか。主イエスの弟子の一人「イスカリオテのユダ」(10節)が裏切ったからです。それによって、イスラエル指導者たちの思惑に反して、主イエスが過越祭のただ中で十字架につけられることになったのです。それなら、ユダの裏切りが神によって用いられたのです。ユダの裏切りは主の弟子としてあってはならないことでした。しかし神は、そのユダの裏切りを通して主イエスの過越の小羊としての十字架の死を実現されたのです。それによって、人間の罪の働きをも益となるように導かれる恵み深い、しかし、主権的な神であることを証しされたのです。
十字架の死を二日前に控えて、主イエスはどのようなお気持ちだったでしょうか。ゲッセマネの園における主イエスの苦悩を思います(32節以下)。しかし、その苦悩のただ中で父なる神に祈り、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と言って十字架の死を全うされ、復活の命の道を開いてくださった主イエスでありました。私たちの救いのために、どこまでも従順に神の御心に服した主イエスであることを深く覚えたいと思います。
牧師 柏木英雄