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先週の説教より

「ユダの裏切り」  マルコによる福音書14章10-11節(9/12説教)

 今日の個所に、12弟子(使徒)の一人イスカリオテのユダの裏切りのことが記されています。主イエスがイスラエル指導者たちの意に反して過越祭の時に十字架につけられたのは、ユダの裏切りのためでした(2、11節)。主イエスはユダの裏切りによって過越祭のただ中で「過越の小羊」として十字架の死を遂げられました。ユダは主イエスを裏切ることによって「使徒」としていわばマイナスの仕方で主イエスに仕えたのです。不思議な神の導きを思わされます。

 ユダが初めから主イエスを裏切るために弟子になったとは考えられません。初めはユダも心から主イエスを信じて主の弟子として生きようとしたのです。ユダが変わったのは、あのフィリポ・カイサリアにおける主イエスの最初の受難予告の時だったのではないでしょうか。あの時、ペトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言って主イエスをいさめ、「サタン、引き下がれ。あなたは~神のことを思わず、人間のことを思っている」と言って、主イエスから叱られました(マタイ16章22~23節)。

 この主イエスの受難予告に最も深く躓いたのがユダだったのではないでしょうか。ユダは主イエスの受難は絶対にあってはならないと固執する間に、主イエスに対して心を閉ざし、そのために主イエスの言葉を神の言葉として聞くことができなくなってしまったのです。それによってユダの心は人間的な肉の思いに囚われ、弟子たちの会計係でありながら「その中身をごまかす」(ヨハネ12章6節)ことも恐れない人間になってしまったのです。そのユダにとってイエスはもはや主(メシア)ではなく、銀貨30枚(マタイ26章15節)で売り渡してもかまわない奴隷の一人になってしまったのです。あれほどイエスの受難を拒んでいた人間が、結果として主イエスの死を早め、主イエスが過越祭のただ中で十字架につけられる道筋をつけることになったのです。人の思いを越える神の導きを思います。

牧師 柏木英雄