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先週の説教より

「御心が行われますように」  マルコによる福音書14章32-42節(10/10説教) 

 主イエスは十字架の死を目前に控え、ゲッセマネ(油絞りの意)の園において心を絞り上げるような苦悩の祈りをされました。「イエスはひどく恐れてもだえ始め、~『わたしは死ぬばかりに悲しい』(と弟子たちに言われ)~地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、~『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように』(と祈られた)」(33~36節)と記されています。

 なぜ、主イエスは十字架の死の直前になってこのような祈りをされたのでしょうか。十字架の死が怖かったからでしょうか。そうではないのです。そうではなく、十字架の死が、本来、主イエスの身に決して起こってはならないことだったからです。主イエスは決して十字架にかかるべきお方ではなかったからです。十字架の死は、イスラエルの人々(神の御目に罪人!)がまことの神の御子メシアである主イエスを「神に呪われた」大罪人として断罪することを意味したからです。しかしそれは、神の御前に全くの不正(罪)が行われることを許すことを意味しました。神の御前に罪人である者たちが自分たちこそ正しいとしてまことのメシアを十字架につけるという不正(罪)を犯すことを認めることを意味しました。しかしそのようなことは、本来、決して主イエスの身に行われてはならないことだったのです。しかし、この「不正」(罪)が行われることを認めなければ、罪人たる人間の罪の贖いは永遠に実現されることがなかったのです。主イエスはこの「二律背反」の事実の中で苦しみ抜かれたのです。それ故に主イエスは、十字架の死を目前にして、しばし立ち止まり、もう一度父なる神の御心を問い、祈り抜き、父なる神の御心を確認することによって、十字架への最後の歩みを進められたのです。

牧師 柏木英雄