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先週の説教より

「強盗に向かうように」  マルコによる福音書14章43-50節(10/17説教)

 主イエスは捕らえられる時こう言われました。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒をもって捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである」(48~49節)と。

 主イエスは、エルサレム入城以来、毎日、神殿の境内に上って御言葉を宣べておられました。その時、人々は主イエスを捕らえようとはしませんでした。いや、捕らえることができませんでした。なぜなら、主イエスに御言葉の「権威」があったからです。力強く御言葉を語られることによって「神共にいます」権威が主イエスを包んでいたので、人々は主イエスを捕らえることができなかったのです。まして「強盗に向かうように」主イエスを悪者として捕えることなどとてもできなかったのです。

 しかし、今や、主イエスは御言葉の権威を行使されないのです。御言葉の権威を捨てて、ただ一人の人間として、いや、まるで一人の罪人ででもあるかのようにそこにおられたのです。なぜでしょうか。主イエスの身に人間の罪が加えられるためです。その罪を主イエスが忍び抜くことによって、罪の贖いを成就するという「聖書の言葉が実現する」ためだったのです。

 主イエスが御言葉の権威を捨てて、ただ一人の罪人のように立たれた時、人々は嵩にかかって主イエスに襲いかかり、あらゆる暴虐を行ったのです。それによって人間の隠れた罪が露わになるのです。その罪を十字架の死において担い抜き、聖書が証しする罪の贖いを実現するために、主イエスはあえて御言葉の権威をお捨てになったのです。「まるで強盗にでも向かうように」剣や棒をもって主イエスを捕えようとする人々の姿の中に、自分たちこそ正しい、イエスは悪人であるとするおごりの気持ちが表わされているのです。

牧師 柏木英雄