先週の説教より
「主の憐れみを告げ知らせよ」 マルコによる福音書5章1-20節
「汚れた霊に取りつかれた人」(2節)のことが記されています。「汚れた霊」とは、主イエスに対する「不従順の霊」のことです。私たちすべての人間がある意味ではこの霊に「取りつかれている」のです。一方では、主イエスの恵みに与りたいと思うのですが、他方では、そのような恵みは要らない、と思うのです。この二つの思いの間で深く引き裂かれた人間の姿が、今日のところに「ゲラサの狂人」として記されているのですが、それは私たちすべての人間の真相でもあるのです。「この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。~彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」(3~5節)とあります。大変悲惨な姿ですが、これが私たち人間存在の真相なのです。
信仰とは、この二つの思いの間で引き裂かれがちな自己を、あるがままに「主よ、憐れみ給え」と主イエスに委ねるのです。主の御前に自らの惨めさを明らかにするのです。すると主イエスは、憐れみの全能の御手をもって私たちに臨み、不思議な「平安」へと導いてくださるのです。これが、十字架と復活と聖霊の恵みのうちに働いてくださる主イエスの「救い」なのです。
「汚れた霊」が豚の中に入ると、2千匹もの豚がなだれを打って湖の中に落ちて死んだと記されています(11~13節)。不気味な光景ですが、汚れた霊の正体が「滅びに向かう激しい衝動」であり、そのような霊によって私たち人間の魂が常に脅かされていることを言わんとしているのです。「身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」(19節)と主イエスは癒された男に言われました。惨めな自分を一番よく知っている身内の人に、主の憐れみの恵みを証するようにと言われたのです。
牧師 柏木英雄
(2019年11月24日週報)