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先週の説教より

「人々はイエスをののしった」 マルコによる福音書15章16-32節(11/21説教)

 18節に「ユダヤ人の王、万歳」とあります。26節には「罪状書きには、『ユダヤ人の王』と書いてあった」とあります。これは祭司長たちが主イエスを嘲る意味で使った言葉です。しかし、この言葉の中に図らずも主イエスの本質(本当の姿)が表わされているのです。なぜなら、主イエスは本当に王様のように堂々と惨めな十字架の死を忍び抜き、それによってすべての人間の罪を贖うメシアの業を実現し、文字通り「ユダヤ人の王」、否、全世界の王(救い主)となってくださったからです。

 23節に「没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった」とあります。没薬を混ぜたぶどう酒は麻酔の効果がありました。主イエスがそれをお受けにならなかったということは、十字架の苦しみを味わい抜くという主イエスの意志が込められています。主イエスは十字架の苦しみを味わい尽くすことによって、すべての人間の罪の裁きを味わい尽くし、それによってすべての人間の罪を贖ってくださったのです。

 29節以下で、人々は「十字架から降りて自分を救ってみろ」「他人を救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」とののしっています。人々のこのののしりの中に「自分を救えない」苦難のメシアではなく、「自分を救う」栄光のメシアを求める人間の本心が映し出されているのではないでしょうか。人間は主イエスを十字架につけながら主イエスの十字架を喜ばないのです。そこに深い人間の罪があります。主イエスは決して十字架から降りることなく、惨めな十字架の死を忍び抜くことを通して人間の罪を贖い、それによってすべての人間を罪から救う真のメシアであることを明らかにしてくださったのです。

牧師 柏木英雄