先週の説教より
「イエスを墓に納めた」マルコによる福音書第15章42節~47節(1/30説教)
43節に「アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た」とあります。このヨセフについてルカ福音書では「善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった」とあり、ヨハネ福音書では「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」とあります。
つまりヨセフは、 主イエスを信じる弟子でありながら、サンヒドリン議員という立場から自分の信仰を公にすることができず、従って、主イエスに対するサンヒドリン議会の死刑判決に賛成ではなかったが、明確に反対することもできず、内心忸怩たる思いを持ちながら主イエスの十字架刑の執行を見つめていたのです。しかし、安息日が近づく中、イエスの遺体が十字架上に曝されているのを見るに忍びなく、勇気を出して総督ピラトにイエスの遺体の引き取り方を願い出、そして「まだだれも葬られたことのない」(ルカ福音書)新しく掘った自分の墓に主イエスの体を葬ったのです。
このヨセフの行為は摂理的な意味を持っていたのではないでしょうか。なぜなら、もしヨセフの申し出がなければ、イエスの体は犯罪者の死体として共同墓地に投げ込まれ、誰の目にも触れることがなかったのではないでしょうか。しかし、ヨセフの申し出によって、イエスの体は大切に亜麻布で包まれ、新しいヨセフの墓に葬られることができたのです(46節)。このように主イエスの体が大切に墓に葬られたことによって、初めて主イエスの墓の中からのご復活が注目されることになるのです。このことを考える時、ヨセフの行為は摂理的な意味を持っていた、つまり、神がこのヨセフの行為を用いてくださった、と言うことができると思うのです。
牧師 柏木英雄