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先週の説教より

「だれにも何も言わなかった」マルコによる福音書第16章1~8節(2/6説教)

 女性たちは安息日の朝早く主イエスの墓へ急ぎました。主イエスの葬りをし直すためでした。つまり、婦人たちが主の墓へ急いだのは主イエスの葬りのためであって、主イエスの復活を期待してのことではありませんでした。主イエスの復活は主を愛する者たちにとっても全く想定外のことだったのです。そしてすべての人間にとって死は最後究極的な現実でした。

 しかし、神にとって死はそういうものではありませんでした。死に勝る神の全能を、神は主イエスの復活において明らかにされたのです。主イエスの十字架の死は神にとって本当に喜ばしい、すべての人間の罪を贖う死でありました。神は主イエスの十字架の死を真に祝福されたのです。そうであれば、主イエスの死は陰府の国にあっても神に守られた、神の祝福に輝くただ一つの死であったのです。そして、三日目に死の滅びの力が主イエスの体を飲み尽くそうとした時、神は全能の御力をもって死の滅びの力を打ち砕き、死に勝利する神の全能の御力を主イエスの復活において現わされたのです。

 墓の中で天使は婦人たちに「弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。~そこでお目にかかれる』」(7節)と語りました。ペトロが後で婦人たちからこの伝言を聞いた時、ペトロはこの伝言の中に自分に対する主イエスの赦しと愛を覚え、そのことが心の励ましとなってガリラヤで復活の主にお会いする勇気を与えられたのではないでしょうか。いずれにせよ、婦人たちが墓で天使の言葉に最初に触れた時、婦人たちは震え上がり、怖くてだれにも何も話すことができなかったのです。主の復活がいかに人の思いを越える出来事であったかが正直に示されています。

牧師 柏木英雄