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先週の説教より

「教会はキリストの体」エフェソの信徒への手紙1章15~23節(2/27説教)

 武山教会は今年教会創立70周年となりますので、今日は「教会」について覚えたいと思います。教会とは何でしょうか。教会とは目に見えないキリストを目に見える仕方で表す、この世におけるキリストの現実体と言うことができます。キリストは教会の礼拝の中でご臨在くださいます。その時、教会は「キリストの体」であると言うことができるのです。それなら、キリストが豊かに力強くご臨在くださる礼拝を行うことが教会の絶えざる課題なのです。詩編51編19節に「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」とあります。心からの悔い改めを伴う礼拝を献げることが求められているのです。

 エフェソ1章10節に「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます」とあります。すべての人間をキリストのもとに「一つにまとめる」ことが「天地創造の前」(4節)からの神の「秘められた計画」(奥義)であり、キリストにおける神の御心(9節)であると言われています。つまり、神はすべての人間をこの世のあらゆる出来事を通して常にキリストへと導いておられるのです。生きることの苦しみや悲しみあるいは喜びを通して、一人一人の心の扉をたたき、キリストへキリストへと導いておられるのです。

 そうであるなら、キリストの教会こそこの世における神の摂理の目標なのです。すべての人が教会へと導かれているのです。現実にはそのようには見えませんが。そうであるなら、信仰者はすでに神の摂理の目標の中にいるのですから、主の教会から離れず、教会の中に生き抜くことが神に祝福された人生を送ることになるのです。

牧師 柏木英雄