先週の説教より
「キリスト・イエスの僕パウロ」フィリピの信徒への手紙1章1~2節(3/6説教)
パウロはフィリピ教会の人たちに自分を「キリスト・イエスの僕パウロ」(1節)と紹介しています。「僕」とは文字通り「奴隷」ということです。いつどんな時も自分の思いによってではなく、キリストの御心に服しつつ生きる者ということです。そのように聞くと私たちは何か重苦しい悲壮な感じがして身を引きたくなる思いになりますが、パウロはむしろ喜んで感謝しつつそう言っているのではないでしょうか。「自分は今やキリスト・イエスの僕として生きることができるようにされた」と言って、喜んでいるのです。
パウロはかつてキリストを憎み、キリスト教徒を迫害することを目的に生きていました。そのパウロがダマスコ途上においてキリスト教徒迫害のただ中で復活の主イエスとの出会いを与えられたのです。その出会いを通して、パウロはキリストこそ正しいお方であり、自分こそ自分の正しさに囚われた罪深い人間であることに気づかされたのです。復活の主イエスとの出会いを通してパウロは主イエスがすべての人間の罪を赦し、すべての人を復活の清き命に招いてくださる恵み深いお方であることを知ることができたのです。
復活の主との交わりを通して、パウロはいよいよ深く自分の罪深さを知るようになりました。「内なる人としては神の律法を喜んでいる」が自分の「五体にはもう一つの法則があり」「罪の法則のとりこ」になっている惨めな自分を知るようになったのです(ローマ7章22~24節)。しかし、そういう自分のために共にいてくださる恵みの主に頼ることによって、主の清き命に生かされる救いの喜びをパウロは知ることができたのです。そのパウロにとって「キリスト・イエスの僕」として生きること以上の喜びはなかったのです。
牧師 柏木英雄
パウロにとって