先週の説教より
「キリストの霊の助けによって」フィリピの信徒への手紙1章15~19節(4/3説教)
15~17節に「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は~愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機から~」とあります。あまりに人間的などろどろとした現実が当時のキリスト教会の中にもあったことに驚かされます。
「ねたみや争いの念にかられて」とあります。パウロの福音宣教があまりにも目覚ましかったので、パウロに負けないようにねたみや競争心にかられて福音宣教に励んだということでしょうか。人間の弱さとしてそういうこともあり得たかもしれません。獄中のパウロを「苦しめようという不純な動機から」福音宣教をするとはどういうことでしょうか。この背景にユダヤ主義的なキリスト教徒の存在(フィリピ3章2節)を考えることができると思います。つまり、彼らはパウロが説く福音宣教とは「異質の」福音宣教をしたのです。言い換えれば、パウロの福音宣教を「正しくない」と批判したのです。もっと律法(割礼)を宣べ伝えるべきだと主張したのです。それが獄中のパウロを「いっそう苦しめる」ことになったのではないでしょうか。
しかし、そういう苦しみの中にあっても、フィリピ教会の人々の祈りとその祈りに答えてくださる「イエス・キリストの霊の助けによって」、パウロの入獄がパウロ自身の救いになると言うのです(19節)。獄の中にあって苦しみを受ければ受けるほど真剣にキリストに頼り、キリストの霊の助けが与えられることによって、パウロ自身が「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という「霊の結ぶ実」(ガラテヤ5章22節)に生きることができるのだから、と言うのです。
牧師 柏木英雄