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先週の説教より

「十字架の死に至るまでの従順」フィリピの信徒への手紙2章6~11節(5/15説教) 

 「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(8節)と語られています。主イエスの「十字架の死に至るまでの従順」は、主イエスの地上における生涯の全てにおいて言えることですが、何よりも主イエスの十字架の死そのものにおいて言えることなのです。

 十字架の死の苦しみの中で、自分を十字架につける人々への憎しみと死に対する虚無と絶望が迫って来る状況の中にあって、主イエスは父なる神への信頼と人々への執り成しの祈りをやめることはなかったのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)という人々に対する主イエスの執り成しの祈りこそ、十字架における主イエスの従順の最もすぐれた姿です。主イエスはこの執り成しの祈りを献げつつ十字架の死を果たされることによって、神の御子メシアとしての神への「十字架の死に至るまでの従順」を全うされたのです。

 そして、天の父なる神が、主イエスの「従順」を本当に真実なものであり、主イエスの十字架の死をすべての人間の罪の贖いの死にふさわしいとお認めになった故に、主イエスは陰府の深みから三日目に神の全能の御力によって復活させられたのです。「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」(9節)とある通りです。

 主イエスは、神の御子であるから復活されたのではないのです。神の御子であるにもかかわらず、いや、神の御子である故にこそ「十字架の死に至るまでの従順」を果たされ、神がその従順を喜ばれた故に、誰も果たすことのできなかった復活の命の道を開くことがおできになったのです。

牧師 柏木英雄