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先週の説教より

「確かな人物テモテ」フィリピの信徒への手紙2章19~24節(5/29説教)

 パウロは、獄中からテモテをフィリピ教会に遣わすに当たりこう語ります。「テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています」(20節以下)。

 「イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めている」という言葉に心が刺されます。自分自身のことが言われているように思うからです。ただ、パウロがここで念頭に置いているのは特にユダヤ主義的キリスト教徒たち(3章2節)のことです。彼らは主イエスを信じると言いながら、律法(割礼)を行っている自分たちの信仰の熱心さと優越性を誇っていたからです。しかし、そのような誇りこそ人間的な肉の思いであって、「自分のことを追い求めている」姿である、とパウロは言わんとしているのです。

 22節でテモテについてこう言っています。「テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、~彼はわたしと共に福音に仕えました。」「確かな人物」(ドキメー,ギリシャ語)とは「確証」「証明」という意味の言葉です。ローマ5章4節では「練達」と訳されています。どんなことがあっても主イエス・キリストを信じることをやめない信仰の「確かな人物」のことです。

 どうしたらそのような人になることができるのでしょうか。主イエスを信じることにおいて心弱く、不従順で、すぐに主から離れてしまう自分であることを正直に言い表すことができる人、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(マルコ9章24節)と主に叫び、心から主に頼ることのできる人、そういう人が信仰の「確かな人物」ではないでしょうか。

牧師 柏木英雄