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先週の説教より

「キリスト・イエスを誇りとする」フィリピの信徒への手紙3章1-6節(6/19説教)

 1節で「主において喜びなさい」「これは~あなたがたにとって安全なことなのです」とパウロはフィリピ教会の人々に語っています。「主において喜ぶ」ことはどんな状況の中でも可能なことであり、そのことに心がけることは、あらゆる罪の誘惑から守られることである故に、信仰者にとって最も「安全なこと」「確かなこと」である、とパウロは言うのです。

 「主にある」とは、主キリストが聖霊の働きの中で私の魂に臨み、私と共にいてくださり(インマヌエル)、私の魂が主の清さに与って清められることです。それによって、私たちは自ずから深い救いの喜びに満たされるのです。それ故に、どんな状況にあっても「主において喜ぶ」ことが、主を信じる者にとって最も基本的な確かな生き方である、とパウロは言うのです。

 どうしたら「主にある」ことができるのでしょうか。私たちは自分の力で「主にある」ことを造り出すことはできません。ただ主キリスト御自身が私の魂の内に臨んでくださる以外にないのです。そうであるなら、私たちができることは「主よ」と叫ぶことです。そして、どのような状況にあっても心から主を呼び求める時、主は私たちの叫びに応えて、私を「主にある」恵みへと導き、救いの「喜び」に生かしてくださるのです。それ故に、どのような状況にあっても罪から守られた平安な生活を送ることができるのです。

 3節で「わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし」とパウロは言っています。どのような状況にあっても私をお見捨てにならず、神の霊の働きによって私を「主にある喜び」の中に生かしてくださる主キリストこそ、私たち信仰者の最大の「誇り」なのではないでしょうか。

牧師 柏木英雄