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先週の説教より

「キリストを知ることのすばらしさ」フィリピの信徒への手紙3章7-11節(6/26説教)

 パウロは「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」(8節)と言っています。キリストを「知る」とは、キリストとの出会いの中でキリストの救いの恵みを味わい知り、それによって今までの生き方が一変する(180度転換する)、そのような仕方でキリストを「知る」(認識する)ことです。

 そのような仕方でパウロがキリストに出会った最初の出会いが、ダマスコ途上での復活の主イエスとの出会いでした(使徒言行録9章)。突然、強い光によって目がくらませられ、地に倒れ伏させられ、三日間目が見えず、食べることも飲むこともできなくされました。今までのパウロの生き方(キリスト教徒迫害者)が根本的に問われ、目もくらむようなアイデンティティーの喪失をパウロは経験したのです。

 そのような復活の主との出会いを通してパウロが気づかされたことは、ユダヤ人としての「誇り」が自分の心の目を曇らせ、主イエスの本当の姿を知る(認識する)ことを妨げていたという事実でした。そのことに気づかされた時パウロは、今まで自分が誇ってきたこと、生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身であり、ファリサイ派の一員であり、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者であったこと(5~6節)、これらすべてがキリストを「知る」ためには「損失」(マイナス)でしかないことが分かったのです。それ故に、パウロは「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」(8b節)と語ることができたのです。

牧師 柏木英雄