文字サイズ
  • 文字サイズを中にする
  • 文字サイズを大にする
MENU CLOSE
キービジュアル

先週の説教より

「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」フィリピの信徒への手紙3章12-16節(7/3説教) 

 「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけではありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」(12節)とパウロは語っています。パウロがこのことを語る背景にはユダヤ主義的なキリスト教徒(3節)の存在がありました。彼らは自分たちが割礼を受けることによって「完全な者」となり、既に神の救い(キリスト)を「得ている」(手に入れている)と言って、自分たちの「救い」を誇っていたからです。

 しかし、本当にキリストに「捕らえられ」、キリストの救いに生かされている者こそ、決して自分がすでにキリストを「捕えた」、従って「完全な者」になっているとは言わない、むしろ、常にキリストを「捕らえようと努めている」と言うはずである、とパウロは言うのです。なぜなら、キリストは決して私たち人間の支配の中に入れることができる御方ではないからです。

 それ故に、真にキリストに救われた者が「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(13~14節)と言うのです。「後ろのもの」とは「既に与えられた」キリストの恵み(霊的臨在、インマヌエル)のことです。それにもこだわらないで、それを「後ろ」に捨て、新しく与えられる(はずの)キリストの霊的臨在の恵みに「全身を向け」、新しく与えられるキリストの恵みによって「上へ召される」ことを「目標」にしながら生きること、それが真にキリストによって救われた者のただ一つの生き方である、とパウロは言うのです。

牧師 柏木英雄