先週の説教より
「死者の中からの復活」 フィリピの信徒への手紙3章8-11節(8/21説教)
補足的に今日の個所を振り返ってみたいと思います。8節に「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」とあります。キリスト・イエスを知る(認識する)ことの「あまりのすばらしさ」(口語訳では絶大な価値)とは、必ずしも特別な信仰の経験を意味するものではありません。日常生活の中で主キリストとの霊的な交わりの中に生かされる時に、私たちは常に新しく感謝と喜びの内にそのことを経験するのです。
その上で、Ⅱコリント12章1節以下の「第三の天にまで引き上げられた」パウロの神秘的な経験を取り上げることができます。これは確かにキリストを知ることの「すばらしさ」を証しする出来事です。しかし、この点でも注目すべきは、パウロの謙遜です。パウロは、そのような経験を誇ることもできるが、むしろ「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(同コリント9節)と言っていることです。ここにパウロの信仰の健全さ、確かさ、いや、偉大さを見ることができます。
10節に「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」とあります。パウロは、キリストの復活の命に与るためには、まず深くキリストの十字架の死に与らなければならないことを強調しているのです。キリストの十字架に与るとは、神の御前にキリストの十字架の死に値する自らの罪を深く覚え、罪を告白することです。そのことをすることなしに、キリストの復活の命に与ることはできないのです。そのことを誠実に行うことが「死者の中からの復活」に与る唯一つの道である、と言うのです。
牧師 柏木英雄