先週の説教より
「公平に裁かれる方」ペトロの手紙(一)1章17-21節(10/16説教)
21節に「あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています」とあります。ここに「キリストによって」(キリストを通して)信じることが強調されています。キリストを信じることも、自分の認識の力によってではなく、キリストご自身の霊的な臨在の恵みによって、心の目が開かれて、初めてキリストを信じることができるのです。弟子たちは、復活のキリストご自身の限りない愛と赦しに接して、心の目が開かれ、キリストの十字架が自分たちの罪の贖いのための死であることを知ることを通して、心からキリストの復活を信じることができ、そこから主の弟子として真に生きることができたのです。その意味で、キリストを信じることも、キリストご自身の霊的臨在の恵みによるのです。
17節に「人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、『父』と呼びかけているのですから、~その方を畏れて生活すべきです」とあります。「行いに応じて」とは、「善い行い」ということではありません。神に御前における「悔い改め」とそれに基づく「行い」(祈り)のことです。キリストの父なる神は、私たちに心からの「悔い改め」をお求めになるのです。キリストの十字架が自分の罪のための贖いの御業であることを信じて。
その「悔い改め」の業に応じて、神はキリストの霊的臨在の恵みを与えてくださるのです。そして私たちは、キリストの霊的臨在の恵みがなければ、力強くキリストの救いに生きることができないのです。その意味で、私たちの信仰と希望は「人ぞれぞれの行いに応じて公平に裁く」神にかかっているのです(21節)。キリストの父なる神は、一人一人の「悔い改め」に応じて、公平に裁きつつ、キリストの臨在の恵みをお与えになります。この御方を畏れつつ歩むことが、信仰の生活なのです。
牧師 柏木英雄