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先週の説教より

「もはや死も悲しみも労苦もない」(聖徒の日礼拝) ヨハネの黙示録21章1-4節(11/6説教)

 ヨハネ黙示録で描かれていることは、使徒ヨハネが幻の中で示された世の終わり、言い換えれば、キリストの救いの完成の世界です。しかし、そのこと(世の終わりのこと)は既に主イエスが地上に救い主として来られた時に、主イエスご自身の中で、また主イエスを信じる者たちの中で起こっていたことなのです。ただ、その時は地上はまだ罪に満ちていますので、主イエスはそのために十字架の御苦しみを味わわなければならず、信じる者たちも自らの罪と不信仰に悩まなければならなかったし、地上の生活が続く限り悩まなければならないのです。

 3~4節に「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」とあります。「神が人と共に住み、人は神の民となる」とは、何よりもまず主イエスご自身のことを言っているのです。主が一人の人間として地上を生きられた時、主は常に「アッバ、父よ」と祈りつつ聖霊に満たされ、「神共にいます」御方(インマヌエル)として生きられたのです。その主を信じる者においても主と同じことが起こり、そのことが世の終わりの時に完成するのです。

 4節に「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」とあります。私たちは、地上に生きる限り果たすことができなかった無数の悔いを抱きながら、それを胸に秘めつつ主の御許に召されなければならないのではないでしょうか。その時主は、そういう私たちを決して蔑むことなく、真実の憐み(十字架の愛)をもって迎えてくださるのです。その時主は、私たち一人一人の目にあふれる悔いの涙をことごとくぬぐい取ってくださるのです。その時、私たちは「死も悲しみも労苦もない」永遠の平安の中に生かされることになるのです。

牧師 柏木英雄