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先週の説教より

「その人の内で泉となり」(音楽礼拝) ヨハネによる福音書4章13-15節(11/20説教)

 主イエスが「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(13~14節)と言われた時、サマリアの女はその主イエスの不思議な言葉に心惹かれ(なぜなら、女は深い心の渇きを自分の内に覚えていたので)、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」(15節)と言ったのです。

 すると、主イエスは「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」(16節)と言われたのです。なぜ、主イエスは、突然、このようなことを言われたのでしょうか。それは、主イエスが与える水を飲むためには、今自分が置かれている現実(罪の現実)を正直に神の御前に言い表し、自分がいかに神の赦しと助けを必要としている人間であるかを深く自覚することが大切である、と言わんとしておられるからです。その自覚なしに、いや、そのことを率直に言い表し、神の赦しと助けを心から祈り求めることなしには、主イエスが与える水(命の水!)を飲むことができないからです。

 主イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11章28節)と言われました。「疲れた者」「重荷を負う者」とは誰のことでしょうか。すべての人間がそういう者なのではないでしょうか。決して取り除くことのできない罪の問題を抱え、心深く悩んでいるという点で、すべての人間が「疲れた者」「重荷を負う者」なのではないでしょうか。その者が自らの重荷を主イエスのもとに下ろした時、その人は不思議な心の平安へと導かれるのです。その時、その人の内に主イエスを慕い求める信仰が泉となって湧き出で、永遠の命への望みに生きる者とされるのです。

牧師 柏木英雄