先週の説教より
「父の独り子としての栄光」ヨハネによる福音書1章14-18節(1/8説教)
14節に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とあります。「言」(ロゴス=神の意志・心)とは、御子イエス・キリストのことです。「肉」(サルクス)とは、罪に染まった人間存在のことです。御子キリストは私たちと同じ罪人としての人間存在を取り、人間の現実のただ中を生きられたのです。
ただ主イエスは、私たちと同じ罪の人間存在を取りながら、罪のない唯一人の御方でした。なぜなら、主イエスは一人の人間として生きられる時、どんな時も「アッバ、父よ」と天の父なる神にご自身を献げ、聖霊によって罪の働きから守られながら(18節「父のふところ」にあって)生きられたからです。
このように主イエスは真に罪のない御方でしたが、イスラエルの指導者たちはこの主イエスを認めることができず、自称メシアで神を冒瀆する人間として十字架につけたのです。しかし主イエスは、その十字架の死を真実に受け、その十字架の死が真に人間の罪を贖う(身代わりの)死であることを天の神に認められることによって、復活の命を現わし、そのことを通してご自身がまことのメシアであることを明らかにすると共に、天の神がいかに恵み深い、罪人の罪を赦して救う恵みの神であるかを示されたのです。
18節に「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのです」とあります。ただ一人主イエスだけが天の神を示すことがおできになったのです。なぜなら、主イエスだけが「父のふところ」にあって父なる神との真実の交わりの中に生きられたからです。それ故に、主イエスを見れば、天の神がどのような御方であるか、真に憐れみ深い恵みの神であることを知ることができるのです。真に神を示すことができること、それが主イエスの「父の独り子としての栄光」(14節)なのです。
牧師 柏木英雄