先週の説教より
「神のものとなった民」ペトロの手紙(一)2章1-10節(1/22説教)
1~2節に「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」とあります。ここは「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊(御言葉)の乳を慕い求める」ことによって、初めて「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去る」ことができる、と読むのが聖書の読み方です。
なぜなら、私たち人間の中には「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を捨て去る」力がないからです。主の御言葉にのみその力があるからです。その主の(無から有を生み出す、否、死人をよみがえらせる全能の)御力を「生まれたばかりの乳飲み子のように」純真に祈り求めることによって、初めて「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去る」ことができるのです。
なぜ、そのようにしてまで主の御言葉を求め、罪と取り組まなければならないのでしょうか。「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」などは世の常のことであり、そのような(小さな?)罪(悪)にこだわっていてはこの世の厳しい生存競争を生きていけないと思うのではないでしょうか。しかし、主の教会(9節「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」)に生きる者(信仰者)は、主の御力によって真の清さ(主の清さ)に生きることができることを証ししなければならないからです。言い換えれば、罪人を「暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業」(9節)を宣べ伝えることが、主の教会に生きる者の使命だからです。
私たちが真剣に幼子のような従順さをもってキリストに頼る時、主は全能の御力をもって一瞬のうちに、私たちの罪(肉の思い)を取り除いてくださるのです。その「驚くべき」救いの御業を証しすることが、主の教会に生きる者の使命なのです。
牧師 柏木英雄