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先週の説教より

「わたしたちが召された意味」ペトロの手紙(一)2章18-21節(2/5説教)

 18節で「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」とペトロは言っています。パウロも同じようなことを言いました。「召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい」(但し、後半部は口語訳では「もし自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい」)(Ⅰコリント7章21節)。

 なぜ、このようなこと(召し使い・奴隷であることを肯定すること)を言うことができたのでしょうか。それは、たとえ奴隷であってもキリストを信じる者として召されたことの方が尊いからです。奴隷でなく自由人(自由の身)であっても、キリストを信じないで自分の気持ち(考え)のままに自由に生きるなら、かえって罪の虜(罪の奴隷)となり、少しも良いことではないからです。召し使い・奴隷であることは人間的には辛いことです。しかし、その辛さ・苦しさ・惨めさの中でかえって深くキリストの十字架の御苦しみを味わい知り、キリストの復活の恵みに生かされ、神の子供として真の自由に生きることができるのなら、自由人で罪の奴隷であるよりはるかに尊いことだからです。

 19節に「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心にかなうことなのです」とあります。キリストこそ「不当な苦しみ」を忍び抜いて復活の命を現わしてくださったのです。私たちが不当な苦しみを受けた時、そのキリストの御苦しみを覚えて耐え忍ぶなら、それは神の御心にかなうことであり、聖霊の祝福を受け、いよいよ深くキリストの救いに生きる者とされるのです。私たちが信じる者として召されたのは、そのような生き方によってキリストを証しするためなのです。

牧師 柏木英雄