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先週の説教より

「ろばの子に乗って」(棕梠の主日礼拝)ルカによる福音書19章28-44節(4/2説教) 

 主イエスがろばの子に乗ってエルサレムにお入りになったのはゼカリヤ書9章9節の言葉に従ってのことでした。「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って」に従って、謙遜に十字架の死を受け抜くことを通して人間の罪の贖いを実現し、救いの道を開くためでした。つまり、主イエスは「苦難のメシア」として歩み抜く覚悟でろばの子に乗ってエルサレムに入城されたのです。しかし、人々は「栄光のメシア」として、神の民イスラエルを支配する王として主イエスのエルサレム入城を歓呼して迎えたのです。

 つまり、人々は主イエスのエルサレム入城の本当の意味を理解しないで主イエスを歓呼して迎えたのですが、主イエスはその人々の歓呼を受け入れられたのです。なぜなら、主イエスが苦難のメシアとして十字架の死を全うすることが救いの道を開くことであった故に、主イエスのエルサレム入城はどんなに賛美しても賛美し切れないほど尊いことだったからです。それ故に主イエスは「もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」(40節)と言われたのです。

 41節以下に「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・。しかし今は、それがお前には見えない』」とあります。「平和への道」とは、主イエスをまことのメシアとして信じることです。そこに真の(心の)平和があるからです。しかし、そのことは人々に隠されていました。人々は今や主イエスを「偽メシア」として断罪し十字架につけたのです。あの歓呼して主イエスを迎えた人々が。その断罪を主イエスが(ろばの子のように!)従順に抜け抜くことによって「平和への道」(救いの道)が拓かれたのです。

牧師 柏木英雄